第1章 再会 -April-

 あの年の春、4月の始めになっても天候は肌寒く、開きかけた桜の花に小雪が散らつくような天気が続いていた。


 新学期の日、クラス編成で印象に残ったこと。
 担任が2年の時と同じ数学教諭の矢島であること。教室の場所が北棟の一番日当たりの悪い場所にあること。悪友の寛史と3年連続で同じクラスになったこと。
 そして、山藤亜矢が編入してきたこと。
 あの日、出席番号順に並ばされた後ろの席から、彼女は当然のように声をかけてきた。
「森島君。」
 後ろを振り向くと、もう2年以上も見なかった、でも決して忘れられない顔があった。
 なだらかな曲線を描く濃い眉に、真っ直ぐ前を見つめる黒目がちで大きな瞳。そして、小さくて丸い鼻に、何処かユーモアをたたえた口元。少し顎の辺りが角張った稜線の深い顔立ちの上では、あの時から変わらないポニーテールと、青いビーズの髪留めが活発な印象を際立たせている。
「・・・、山藤さん。」
 にっこりと彼女は笑った。
「帰ってきたよ。」
 驚きは一瞬だった。
 それより中学3年の時の記憶が一気に胸の内を通り過ぎ、急に椅子の座り心地が悪くなったような気がした。
「同じクラスになるなんて、なんか不思議な感じ。この高校に編入することになったから、少し期待してたんだけど。」
 記憶に焼き付いている白いセーラー服から、ディープブルーのブレザー姿になっても、身体全体から発される輝くような印象は少しも変わらない。
 俺の方はすっかり変わってしまって見えるだろう。中学までの俺は、もう何処にもいない。真っ直ぐに続いていた道は、とうに折れ曲がり、人生に決まった目標など存在しない事を幾度も思い知らされていた。
「変わらないね。山藤さん。」
「そうかなあ。」
 眉をちょっと上げて、顔を斜めに傾ける仕草。少しがっかりしたような表情に見えた。
「でも、森島君はそんな長い髪で大丈夫なの?ここの野球部・・・」
 いつか来るだろうと思っていた質問だった。またこんな形で苦い思いを蘇らせるのは愉快ではなかったけれど、彼女には話してあげるべきなのだと思う。
「俺さ、もう・・・」
 口を開きかけた瞬間、教室の入り口がバタンと開いて、去年から見慣れた姿が教壇に上がる。
「おお、みんな揃ってるか。」
 髪をトニックで撫で付けた小太りな体格の矢島が、ガラガラ声を響かせた。
 言葉を待って俺の顔をじっと見つめた、黒目がちな瞳を心の内に残したまま前を向く。
「おい。」
 何処かで見たスポーツ刈りの顔が、隣から脇腹を突付いた。
「・・・知り合いかよ。」
「ああ。」
「すっげえ、美人じゃんか。」
 前に座った丸顔の男も椅子を後ろに倒し気味にすると、
「編入する女子がいるって聞いてたけどさ、なんでお前なんか知り合いなわけよ。」
「どうでもいいだろ。」
「たく、暗い奴。」
「そこ!」
 教壇から指差すと、矢島の大声が飛び込んで来る。
「最初くらい静かに聞け。」
 出席簿をパタンと開くと、教室全体を見渡した。
「高校最後の1年間、このクラスでやっていくわけだが、とにかく受験に向けた大事な時期だ。できる限り仲良く、助け合っていくように。」
 もう一度、俺の座っている方に向けて視線が来る。
「出席を取る前に、一人紹介しておかないといけないな。・・・山藤。」
「・・・はい?」
「立ってくれるか。」
 矢島に促されると、彼女のガタンと立ち上がる音が後ろで響いた。40人の視線が一点に集まる。
「山藤亜矢(やまふじあや)さん、この3月に神奈川から越してきたそうだ。中学まではこちらに住んでいたそうだから、知ってる奴もいるかもしれないな。」
 自己紹介をする彼女の澄んだ声が、教室全体に響き始めた。俺はその間ずっと、ぼんやりと廊下を見つめていた。


 その日の夕食もいつもの通り、母の作り置いていったオカズをレンジにかけて食べていたと思う。
 居間のガラステーブルの上に肉じゃがを置くと、TVのリモコンの電源スイッチを押した。29型のモニターにニュースキャスターの顔が映る。
「年初来の安値更新が続く東京株式市場の流れを受けて、公定歩合の再引き下げの見通しを示した日銀総裁の・・・」
 TVの音をBGMに白飯を口に運ぶ。
 オリエンテーションが終わった後、できるだけ早く教室から引き上げてきたことを思い出した。
 彼女の混じり気のない瞳が、たった一言を告げるのをためらわせていた。
『もう、野球はやめたんだ。』
 小学校高学年から、中学の3年間、白いボールを追うことが俺の生活のほとんど全てだった。
『すごいよ、タケちゃんは。』
 その側にいつも彼女はいてくれた。合唱部だった彼女が、マネージャーのように顔を出す様子に、付き合ってるだのと噂を立てる奴もいた。でも、俺はそんな風に思った事は一度もなかった。
 小学校から近所で育った幼なじみ。一人の女の子というより、いつも彼女は、気が付くと側にいてくれる「あーちゃん」だった。
 誰よりも歌うことが好きだった彼女。
 練習が終わった後、次の発表会の課題曲を聞かせてくれたメゾソプラノの声は、今でも耳に焼き付いている。
『付属に推薦決まったんだってね。甲子園に行ったら、どこにいても絶対応援に行くから。』
 その言葉と共に、彼女が引っ越して行った後、何もかもが変わってしまった。
 ただそれは思い出しても意味のないことだ。
 無意識に辿ってしまった記憶の糸を切ると、再びぼんやりとTVに目をやる。画面では、新興宗教教団の信者拉致疑惑を追跡する特集が流れていた。
 新聞のTV欄を見て面白そうな番組を探す。番組改変後のドラマやお笑い番組が並んでいたが、どれも興味が湧かないものばかりだった。
 プルルルル・・・。
 居間の隅にある電話の子機が音を立てた。
「はい。」
『お、帰ってたか。』
 聞き慣れた甲高い声は、寛史のものだった。
「ああ、さっきな。」
『何回しても出ねえからさ。また、街ブラか?』
「どうでもいいだろ。」
『へいへい。でさ、お前今日さっさと帰っちまっただろ。』
「ああ。」
 寛史が何を言おうとしているか、だいたい予想がつく気がした。
『びっくりしたよな。山藤が戻ってきてさ。お前もだろ?』
「ああ、まあな。」
 受話器の向こうからため息をつく音が聞こえた。
『たく、なんでお前はそうかな。もうちょっと驚けよ。山藤、お前のこと俺に聞きまくっててさ。全部話しちまったけど、良かったか?』
 寛史も、中学3年の時から彼女を知っていた。自分から話さなくてよかったことで気が楽になるのと同時に、何処かで割り切れない思いが残る。
『やっぱ、悪かったか。』
 声のトーンが落ちる。
「・・・いや、いいよ。寛史が気ぃ遣うことないさ。」
『そっか。』
 少し間があった後、寛史らしくない低いトーンで言った。
『なんかさ、山藤の様子がなんかちょっとな。お前、ちゃんと話しとけよ。』
「ああ。」
 話すような何かがあるのだろうか。寛史が話したであろう以上に付け加える事があるとは思えなかった。ただ、2年ぶりに見てもなお、変わらずに真っ直ぐ見つめ返した瞳を曇らせるのは気が重かった。
『じゃな、言う事は言ったからな。』
 素っ気無く電話が切れた。
 どうして彼女は戻ってきたんだろう。整理がついた全てをもう一度掻き混ぜるように。
 受話器を置いて立ったまま、しばらく考えていた。
どちらにせよ、終わったことなのだから。もし、彼女が望むなら、おおよその事は話してやろう。もちろんそれで、彼女が納得するとは思わないが。
 まだメスの跡が残る肘を無意識にさすった。
 『もう、ピッチングは無理でしょう。』
 まだ何処かで胸が痛んだ。彼女のことを思うと、それがまるで昨日のことのようで辛かった。

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