第2章 告白 -May-
あの頃、まだ今ほど高校生の男女交際は当たり前ではなくて、わたしの頭の中での「好き」という想いは、ほとんど精神的な意味のものだったと思う。
あの日の後、すぐ席替えがあって、わたしと彼、森島君の席は教室の端と端に離れてしまった。新しい環境に慣れる間に慌ただしい日々が流れ、気がつくと暦は5月になっていた。
最初の日以来、森島君と言葉を交わすことはまったくなかった。
ちゃんと本人と話したい、そう思う一方で、気持ちの落差に整理がつかなかった。ずっと抱き続けていた想いが落ち着く場所のないまま色褪せる中で、わたしは入部した合唱部の活動に打ち込んでいった。
ベッドに横になったまま、野球雑誌を開いた。ダイナミックなフォームで投げる背番号11の投手のグラビアをぼんやりと眺める。
「タケちゃん、将来投げ合いたいよね。」
今年もきっとプロ野球で旋風を巻き起こすだろう新しいスターの事を話しながら、2年前のように一緒に帰れたら。
そんな風に考えてた。とても漠然と・・・。
人は変わる。そんな当たり前のことも考えずに勝手に思い込んでいたわたしはなんて馬鹿だったんだろう。
花柄の大きな枕を、青いTシャツの胸に引き寄せてぐっと抱きしめた。
「亜矢。」
部屋のドアをノックする音と共に、母の呼び声がした。
「何?」
横になったままぶっきらぼうに答えた。今は誰とも話したくなかった。
「電話よ。合唱部の上原さんって人から。」
部長だ。身体を起こすと、呼び出し音の切ってあった子機を、ベッドに備え付けの棚の上から取り上げた。
「もしもし。」
『あ、山藤さん。上原だけど。』
最近すっかり聞き慣れたよく通る少し高音の声が受話器から響いてきた。
「部長。今日は遅くまでどうも。」
『いや、課題曲の選定は大事だからね。それより、明日朝、少し早く出てこれる?』
「朝練?」
電話の向こうの部長の声が少し早口になる。
『ううん、そういうわけじゃないんだけれど。ちょっと渡したいものもあるし。』
「渡したいものって?」
躊躇なく訊ねると、いつも淀みのない口調が口篭もった感じになった。
『うーん、・・・テープ。』
あ、そうか。わたしが聞くって言ったんだ。でも、わざわざ朝渡さなくても・・・。ま、いいか。
「うん。わかった。7時半位でいい?」
『あ、いいよ。全然。じゃ、明日。』
唐突に電話が切れた。最後は妙に明るい調子に変わっていた。
・・・なんか上原部長、変な感じだったな。
緑のパステルカラーの丸い掛け時計を見ると、時計の針は9時に近付いていた。
お風呂にでも入ろうかな。
そう思う意識とは裏腹に、またベッドに横になってしまう。身体全体が妙にふわふわした感じだった。手足の先がジンジンして、自分の身体ではないような気がする。
最近、こういうことがよくある。決して悪い感じじゃないのだけれど、気分の置き所に困ってしまう。
『それ、排卵日だよ。たぶん。基礎体温、測ってる?』
クラスで最初に友達になった美佳はさばけた性格で、おとといわたしが話した時、ざっくばらんにそう言った。
『ちょこちょこっとしちゃえばスッキリするかもよ。あんただってたまにはするでしょ。』
自慰行為はしないわけじゃないけれど、本当にごくたまにだった。終わった後にどうしても、罪悪感が残って気分が滅入ってしまうから。
面倒な事が増えていく。気持ちだけでは割り切れないもの、正しいのか間違っているのかわからない事。
上原部長とわたしのことが、もう噂になっているのも知っていた。
『上原君なら最高だよ。優しーし。付き合っちゃいなよ。』
『でも。』
『あ、でもやっぱ、大変かもね。あいつ、結構人気あるもん。』
確かに、スマートな人だとは思う。ただ、それがすぐに男女の事になる必要なんてない。
でも、どこかで否定できない感情がある。もう知り合いの何人かは「済ませて」いたし、それが全てではない事もわかっている。ただ、わたしは誰よりいつも恋していたい。だから、その向こう側にあるものを見据えないわけにはいかないんだ。
はあ・・・。ほんと、こういうのはわたしらしくない。考えてどうなるものじゃないのに。だって、世の中には絶対あるはずだと思う。ずっと変わらない何かが。
・・・お風呂、入ろう。
わたしはベッドから勢いよく身体を起こすと、タンスから着替えを取り出して部屋のドアを開けた。
「ありがとう。」
朝の光が差し込む教室で、上原部長の差し出したカセットテープを受け取った。
「『美しき水車小屋の娘』、ライブは持ってないから。やっぱり、エアチェックしたの?」
「うん。一応、FM雑誌は買ってるから。」
清潔に刈り込まれた柔らかい髪の下の上原君の表情は、いつもよりどこか所在なげに見えた。
「やっぱり、シュライヤーはいいよね。」
机の上のカバンを開くと、丁寧な字で書かれた綺麗なカセットを内ポケットに入れた。
「でも、わざわざこんな朝早く渡さなくてもよかったのに。」
椅子に腰掛けて、窓際に寄りかかった上原君の顔を見上げる。あ、そうか。
わたしは言葉を続けた。
「あ、やっぱり少し気にした?なんか最近ちょっと、ね・・・。」
「ちょっと?」
やや視線を逸らしながら話す姿に、先の言葉を続けるのが少し恥ずかしくなった。
「ほら、部長には関係ないかもしれないけど、なんか言ってる人いるでしょう。・・・噂みたいなこと。」
「それって、僕と山藤さんのこと?」
彫りの深い目で直接見下ろされると、わけもなくどぎまぎして目を逸らしてしまう。そんな気なんて全然ないのに。
「・・・ねえ。」
明らかに今までと違う声の調子に顔を上げると、思ってもいない言葉が、彼の口から形作られた。
「その噂、本当にする気はない?」
「え。」
ど、どういう意味。なんで?どうして?
「・・・山藤さんみたいな人、僕は初めて会ったから。合唱していても、クラシックを聞く人はほとんどいないんだ。付き合えたら、きっといい感じでいけると思うんだけど。」
発する言葉が見当たらない。真剣な眼差しを見ていることができなくて、床に目を落としてしまう。
「別に、何っていうわけじゃないんだ。コンサートとか、映画とか、たまに一緒に行けたらってくらいなんだけれど。だめかな。」
どう答えたらいいんだろう。今までそんな素振りを微塵も見せなかっただけに、まったく心の準備ができていなかった。
「わ、わたし・・・。」
『付き合っちゃいなよ。』
ダメ。だって、上原君のこと、そういう風に考えられない。
「ゴメン。わたし、部長のこと・・・。」
下を向いたまま答えると、ふぅ、とため息が聞こえた。
「・・・やっぱり、だよね。」
落胆した調子に、慌てて顔を上げた。
「ごめん。でも。」
「謝ること、ないよ。僕が勝手に盛り上がってただけ・・・」
ガタン、と廊下側で音がして、わたし達は同時に教室の入り口を見た。
茶の入った前髪がパラパラと額にかかった男子生徒は、こちらを一瞥すると、教室の一番後ろの席にナップをボンっと置いた。
「じゃ、僕は行くから。部には来てよ。」
第三者の出現に、慌てて立ち去る部長の姿を向こう側に、わたしの心は動揺の極にあった。
「も、森島君、これは、そういうんじゃないんだからね。」
ナップから教科書類を取り出しながら、ほとんど聞き取れないくらいの声が教室の反対側から響く。
「・・・別に、言い訳しなくていいよ。誰にも言わないから。」
ほとんど感情のこもらない調子だった。
どうして!
わたしは席から立ち上がると、ガタガタと机の間を抜けて、彼の前に立った。
「本当に、そんなんじゃないんだよ。ただ、カセットを渡してもらってただけ!」
唇を結んで、軽く鼻から息を吐くと、彼は視線を上げてわたしの方を見た。
「・・・いいよ。別に俺に関係があることでもないんだし。」
瞳の色の冷たさと、『関係ない』という言葉が、鋭く胸に突き刺さった。涙が出そうになる。でも、絶対に泣くものか。
「どうして、そんな風になっちゃったのよ。べつに、別に、わたしのこと気にかけてくれ、なんて思ってないけど、前の森島君はそんな言い方絶対にしなかった!!」
自分で思っている以上に大きな声だった。
彼の細い目が大きく見開かれた。唇が言葉を紡ぎだそうとした時、がやがやとした声が外から響き始めた。
「あーちゃ・・・」
呆然とした彼を後ろに、わたしは廊下に駆け出していた。
どうして、どうして・・・。
わたしの2年間の想い。向こうの高校でも彼のような人は誰もいなかった。中学生の時の記憶は、誰にも渡せないわたしだけの宝物だった。遊びや、デートや、ファッションや、自分の間尺に合っているかもわからない雑多なことに、傍目も振らずに白球だけを追っていた彼。
『今できることをするんだ。』…今でも決して忘れない言葉。だから、わたしは大好きだった。そういう視線をわたしも持ちたいと思った。
でも、その彼はもうどこにもいない。何処にも・・・。
屋上へ続く階段の一番上で腰をつくと、涙がこぼれ始めた。後悔とも、悲しさともつかない気持ちが涙になって溢れて、どうしても止まらなかった。
その日の部活にはどうしても出席する気にはなれなかった。こんな調子で歌っても、まともな声が出るとも思えなかった。
ずっと守り続けてきた大事なものが指の間から零れ落ちてしまったことに、どうしても気持ちの整理がつかなかった。
そして、冷たく『関係ない』と言われたあの時に、余計に気付かされてしまった事実。今もやはり彼が好きだいうこと。
でも、それはたぶん今の森島君じゃない。
理科棟の5階にある図書室の一番端の席に座ったまま、ぼんやりと外の景色に目をやった。小高い丘の上にあるこの高校で一番高い場所。遠くに海岸線が見えるこの席が、わたしのお気に入りの場所になっていた。
その時、背中をちょんちょんと誰かの指で押されたのに気付いて振り向いた。
「美佳。」
切れ上がった勝ち気な瞳が覗き込むと、小声で言った。
「昼は、ごめん。問い詰めるようなこと言ってさ。これ、わたしが行ったら読んでくれる?」
言って、小さく折りたたまれた花柄の便箋を閲覧机の上に置いた。
意味がわからずに見上げると、ショートヘアーをくるりと翻して、軽くウィンクをして歩み去っていく。
突然の友人の登場に呆気にとられて目で追うと、急ぎ足で階段の下に背の高い姿が消えていく。
朝の様子を見られて、昼食時にいろいろ聞かれたのは確かだった。でも、わたしは何も話さなかったし、興味本位にからかわれたわけでもなかったけれど・・・。
たたまれた便箋を開けると、勢いのある美佳らしい字で、こう書かれていた。
『本人経由じゃなくていろいろ聞くのはわたしの趣味じゃないんだけどさ、亜矢の様子が気になったもんだから。(イイワケだな、ゴメ。)寛史の奴にだいたいの事は聞いた。取りあえず、東総合公園に行ってみな。(って、寛史が言うんだよ。わたしにはさっぱりなんのことかわからんが。)
亜矢、何も森島に伝えてないだろ。屈託ないようで、あんたそういうとこあるから。でも、こういうことは、はっきり言わないとダメだよ。じゃ、明日学校で。
おっせかいオンナより』
どういうこと?東総合公園って、昔わたしが住んでたマンション近くの大きな公園だ。
その時、古く霞んだ記憶が脳裏をよぎった。
そうだ、あの公園には昔から大きな野球場があって、少年野球の練習が行われていた。
わたしの投げたどうしようもないくらい遅いボールを、5年生の彼が打ち返して、外野のネットまで飛ばした時の驚きを今でも憶えてる。
わたしは、カバンに荷物を詰めると、慌ただしく学校を後にした。
2年前の記憶を辿って、懐かしい町並みまでバスでやってくると、もう西の空は赤く染まりはじめていた。
美佳と寛史君の間で何が話されたのかわからなかった。ただ、2年前と少しも変わらない西台町の町並みが近付いてくるにつれ、わたしは自分の考えがとんでもない早とちりだったのではないかと思い始めていた。
総合公園前のバス停で降車すると、広い公園の遊歩道を緑色のネット目指して歩いていく。
・・・ほんとに、変わってないなあ。
一度は来ようと思っていたのだけれど、今度建てた家は、広い市のまったく反対側にあって、簡単にはここまで来ることができなかった。
カキーン。広葉樹に囲まれたスポーツエリアに入ると、バットと球が弾ける音が響いてくる。
・・・まさか。
でも、球場全体がみえるバックスタンド側に立った時見えたのは、予想とはまったく違った眺めだった。
緑色のネットに囲まれて練習しているのは、白いユニフォームに身を包んだ小学生の子達で、高校生ではなかった。
でも、東総合公園と言われたら、わたしにはここしか思い浮かばない。それとも、何処か別の場所なんだろうか。
あれ・・・?
その時、大声を出してノックをしている男性の衣服に違和感があることに気付いた。球を渡している中年の監督さんらしき人も含めて、皆がユニフォーム姿なのに、その人だけはYシャツに青いスラックスでバットを振っている。
「センター!」
大きなフライが打ち上げられた。
その声。その姿。
「O.K、ナイスキャッチだ。」
森島君。・・・どうしてこんな所で。
夕焼けの空に、次々に打ち上げられる白球。よく響く声で指示を出し、時に荒っぽい感じで打球の追い方を叫ぶ姿。
長い髪の下の額に、汗が光って見えた。
そうか・・・。
「次、レフト。見えるか?」
「はい!」
「よし!」
ライナー性の打球が勢いよく少年の正面に飛んでいく。
『肘を壊して、部に出なくなったみたいだ。』そう聞いた時、何処かで思っていた。どうして?ピッチャーじゃなくても、野球はやれるはずなのにって。
わたしは馬鹿だ。どうして変わっちゃったの、なんて。自分勝手な思い込みに当てはめて・・・。
森島君は、中学の時のまま何も変わっていない。きっと、いっぱい苦しんでここを見つけたに違いないと思う。
練習はその後もしばらく続いた。ノックに専念する彼は、まったくわたしに気付く素振りもなかった。うん、そうだよ。だって、昔もそうだったもの。
「よーし、今日はここまで。」
監督さんの声とともに子供達が散っていたグラウンドから帰ってくる。ベンチの所に戻った森島君は、汗を拭きながらブレザーを羽織った。
いつ、気が付くかな。
歩み寄った監督さんが何かを話すと、初めてこちらを向いた。驚いたような感じが、遠くからでも伝わってくる。
・・・来たよ、森島君。
こちらをまっすぐに見つめながら歩いてくる彼の姿。少し骨張った感じになったけれど、背筋をピンと伸ばして歩いてくる姿は、わたしの憧れそのままだった。
頭半分背の高い彼が目の前に立つと、見上げたわたしには、しばらく何を言っていいのかわからなかった。
数分にも思えた沈黙の後で、わたしはゆっくりと口を開いた。できるだけの想いを込めて。
「野球、辞めてなかったんだね。」
彼はわずかに微笑むと、静かに言った。
「いや、辞めたんだよ。もう昔みたいな球は二度と投げられない。」
違うよ、森島君。本当に変わらないものは、形じゃないんだから。
「ううん、辞めてないよ。関わり方が変わっただけ。きっと、辛かったのに・・・、あんなに打ち込んでたんだもの。」
ごめんね、わたし、一番大事な時に傍にいられなかった。
「それでも、あんな風に子供達にボールを打ってる。やっぱり、森島君だ。わたしの知ってる、タケちゃんだよ。」
今ならわたしの正直な気持ちを言える、そう思った。
心の中で何度か繰り返した後、思い切って声を出す。
大好きだよ、大好きだよ・・・。
「森島君、ずっと、そして今も、大好きだよ。あ・・・、やっと言えた!」
わたしの顔を見下ろした彼の目が、何か言葉を紡ごうとする。ううん、いい。言葉にしないで。
彼の大きな手を発作的に両手で握り締めた。
「なんにも言わないで。今は、森島君だって、答えが出るはずないもん。でも、友達にはなれるでしょう?」
「あ、ああ。」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、握った手から温かさが伝わってくる。
あ。
彼のもう一方の手が重ねられてわたしの手が包み込まれる。それだけで、気持ちが満たされて涙が出そうになった。
「中学の時、言えば良かったね。そうすれば、手紙だって出せたし、いくら離れていても、力になれたと思うから。」
もう一度、強く手が握り締められて、顔が近付いた時、恐れにも似た震えが身体を駆け抜けていった。
「山藤さん。いや、亜矢ちゃん。俺、亜矢ちゃんが戻ってきて嬉しいよ。・・・あ、俺も言えたよ、本当に言いたかったこと。」
わたしも、ほんとうに嬉しい。ただいま、森島君。わたし、帰ってきたよ。
わたしは心の中で呟いた。