第2章 告白 -May-
始業式の次の日、予想していた彼女からの問いかけはなく、日々は今までと同じ時を刻み始めた。
席順が変えられて、俺の席は廊下側の一番後ろになり、窓際の席で友人に囲まれる彼女との距離は、離れる一方だった。それでよかった。昔の印象のままクラスの中心になっていく彼女を、自分が煩わすのは何より嫌だった。
そして、4月は何時の間にか終わり、気がつけばカレンダーはゴールデンウィークに差し掛かっていた。
その日、初めての進路指導があって、去年同様の台詞が矢島の口をついて出た。
『森島、お前はやりゃあできるはずなんだよ。もうちっと、やる気出せよ。』
別にいいんすよ、大学行くつもりがあるわけでもなし。俺も去年同様に言うと、矢島はオールバックの髪を両手で撫で付けながら息を吐いた。
『もったいないな。奨学金、って手もあるぞ。』
これも去年同様。けれど、そういう問題じゃない。お金を借りてまで大学に行って、何をするつもりなのか、その答えがない。
レンガ状のタイルにアンティーク調の街灯の光が照りはじめ、繁華街はすっかり暗くなってしまった。
制服のままで「ミラノハウス」と書かれた店のドアを開ける。ドアベルがカランカランと鳴ると、カウンターだけの狭い店内には、客が一人もいなかった。
「お、いらっしゃい。武史、夕飯かい?」
緑色のエプロン姿のマスターが白い大皿を拭きながら、イタリア風の小物の並んだカウンター越しに、眼鏡と口髭が目立つ角張った顔を出した。
「ちょっと待ってな。余りものでなんか作ってやるから。」
「申し訳ないっす。」
一番奥の席にダークグリーンのナップを置くと、背の高い椅子に腰掛けた。
「どうだ、学生最後の年は。」
フライパンに手を掛けながら、首だけをこちらに向けた。
「別に、去年と同じだよ。」
「そうか?」
オリーブオイルを火にかけると、ほのかな香りが狭い店内に立ち込める。
「なんか、寛史の奴が言ってたぞ。なんとかって子が戻ってきたって。」
あいつ、余計なことを。
「山藤亜矢のことでしょ。」
「そうそう、その名前だ。お前といい仲だったっんだろう?男冥利に尽きるなあ。2年経ってもずっと想っててくれったって。」
「そんなんじゃないよ。また、寛史の勝手な妄想。」
「そうかねえ。いつもの馬鹿話と違って、随分とリアリティがあるように僕には思えたけれど。」
玉ねぎが炒められ、続いて端切れの野菜が放り込まれる。会話が止まると、料理が進む様をしばらくぼんやりと眺めていた。
始業式の日以来、彼女の事を考えることはあまりなかった。中学の日々、確かに彼女は自分の傍にいた。でもそれは恋愛感情とは別物だった。幼い日を共有した、他の誰にも代えられない感覚。もし当てはめるなら、家族のように。
「ほい、できたよ。」
野菜と鶏肉がはいったピラフ風の炒め飯が乗った皿が置かれた。
「ありがとう、マスター。いくらでいい?」
「ああ、今日はいいや。結構お客さん入ったから。」
「いや、そういうわけにもいかんから・・・。」
眼鏡の奥、茶色の瞳がやんわりと拒否の色を浮かべる。
「ま、たまには奢らせてよ。どうせ、金ないんだろ?」
「・・・じゃ、頂いちゃうよ。」
マスターがうなずくと、スプーンを口に運ぶ。香りと熱い舌触りが口の中で溶け合って、空腹が満たされていく。
「家は相変わらずかい?」
しばらく食べ続けた後で、マスターはさり気なく聞いた。
「ああ、あいつは女のとこ行ったままだし、母親も夜出たきりだからね。」
「ふーん。そうか。」
何を訊ねるでもなくうなずくと、またグラスと皿を拭き始める。
「ま、偽ものの家族だから、俺のところは。」
なんとなく口にしてみて、家族、という言葉が自分の胸に響くのがわかった。そうか・・・。
「どうかしたかい。」
「ううん、何でもない。」
彼女の顔がはっきりと思い浮かんだ。幼稚園、小学校、そして、中学。その時々の顔を全て知っているのは彼女の他にいなかった。
やっぱり、話した方がいいのかもしれない。別に具体的なことでなくても。でも今更どうやって?俺は、昔の様に振る舞えるわけでもない。
胸の何処かが痛むのを感じた。どうしてなのか、その時の俺にはわからなかった。
春の朝の空気が吸いたかった。
ただそれだけの理由で、その日は30分ほど早く家を出た。
まだ、ほとんど人通りのない川沿いの遊歩道に自転車を走らせると、川面からの冷たい空気が感じられて雑多な思いが消えていく。
できるだけゆっくりと進んで、学校の校門が見えたのは始業20分以上前だった。
下駄箱に革靴を置いて緑色のスリッパを投げると、誰もいないリノリウムの床にペタンと乾いた音が響き渡った。窓の外の景色をぼんやりと見ながら、階段をゆっくりと上っていく。
こんなに早く学校に来たのは、いつ以来だろう。
4階の廊下を教室へと歩きながら眼下の校庭を見下ろすと、土の付いたユニフォーム姿の野球部員たちが、走りながら用具の片づけをしている。
そうか・・・。1年の最初の頃は、俺も朝練で7時にはあそこにいたっけな。
3−Cの入り口まで来て、校庭の眺めから目を離すと、廊下の窓から教室の中を見た。
あ、先に来てた奴がいたのか。
窓際にスラリとした体型の男子生徒が立っていて、机に腰掛けた女子の方を見下ろして何かを喋っている。
ん?あの席は・・・。
うつむいて少し困ったような表情を浮かべる、ボニーテールの少女。
彼女だと気付いた時には、ドアをくぐって教室の中に足を踏み入れていた。
きまり悪そうにこちらを見た小奇麗な感じの男子生徒は、多分合唱部の部長の上原だと思う。女子に結構人気があり、3−Bの委員長でもあったと記憶していた。
そして、一瞬こちらをまじまじと見た彼女の大きな瞳。
・・・これは、とんだ邪魔をしたかもしれない。
窓際の方を見ないように廊下側の一番後ろの席にナップを乗せた。
「じゃ、僕は行くから。部には来てよ。」
親しげな上原の声が響く。
教室を出ていく足音を聞きながら、唐突に息が苦しくなるのを感じた。鈍い痛みが胸の辺りに込み上げて、少しだけ奥歯を噛み締めた。
まったく予想しなかった心の動きを押さえようと、ナップを開けて教科書類を取り出す。それでも、手の動きが機械的になってしまう。
教室の端から、彼女のよく通る声が突然響いた。
「森島君、これは、そういうんじゃないんだからね。」
どこが、そういうんじゃないんだ?言い訳なんて必要ないのに。
「・・・別に、言い訳しなくていいよ。誰にも言わないから。」
顔を上げられなかった。彼女の方を見るのが何故か怖くて仕方がない。
ガタガタと机に身体が当る音と足音。風のように近付いてきた彼女は俺の前に立って、より強い調子で言った。
「本当に、そんなんじゃないんだよ。ただ、カセットを渡してもらってただけ!」
どうして、俺に言うんだ。
胸の鈍い痛みがさらに増す。なんとかこらえようと唇を結んで鼻から息を吐いた。ピンク色のスリッパを履いた足元から視線をゆっくりと上げて、努めて冷静に言葉を作った。
「いいよ。別に俺に関係があることでもないんだし。」
言っている間に、彼女の瞳の色に気が付いた。考えていたような怒りや自己主張ではなく、黒目がちな瞳は、悲しさに溢れているように見えた。
「どうして、そんな風になっちゃたのよ。べつに、別に、わたしのこと気にかけてくれ、なんて思ってないけど、前の森島君はそんな言い方絶対にしなかった!!」
激しい口調だった。今までの痛みを一気に消し去って、えぐられるような衝撃が胸を突き抜けた。言葉の意味が掴めない。彼女は、自分の事を話していたんじゃないのか・・・?
うつむいた肩が細かく震えていた。
普段は愛敬のかたまりのような丸い眉が、ギュッと寄せられて何かに耐えるように固まっている。
「あーちゃ・・・」
発作的に昔の呼び方をしようとした時、廊下から複数の女子の話し声が近付いてきた。
彼女は、身体を翻すと、教室から飛び出していく。反射的に後を追おうと思ったが、すれ違い様に入ってきた女子の集団と目が合って、立ち上がりかけた身体を元に戻した。
ただならぬ様子に気が付いたのか、ショートヘアーの一人が俺の席の方に近付いてきた。
「どうしたの、亜矢は。」
声をかけたきたのは、佐野美佳だった。クラスで一番押しの強い女。
「何でもない。」
何とか目尻の切れ上がった鋭い目を見返したが、身体はまるで言う事をきいていなかった。
「何でも無いようには見えなかったけど。」
机の上に手を突くと、身を乗り出すようにして俺を見下ろした。
「美佳ぁ、やめときなよ。森島なんか相手にしてても・・・。」
ブレザーの袖を引っ張られた佐野は、教室の中央辺りの自分の席に歩み去っていく。
まだ彼女の言葉が頭の中で響いている。
『わたしのこと、気にかけてくれなんて思ってないけど』・・・。
もしかすると、俺はとんでもない独りよがりをしていたのか?彼女がそんな風に思っていたとするなら。
すっぽりと抜け落ちていた可能性に、どう対処していいかわからなかった。
街をぶらつくのは、今日の気分ではないと思った。
放課後の帰り道、俺は久しぶりに地区で一番大きなこの公園のベンチに座っていた。
赤くなり始めた西の空を後ろに、ユニフォーム姿の男の子十数人がキャッチボールをしている。夕方には大抵、地元の少年野球のチームが、この簡易球場で練習をしていた。
今日の朝と、それに引き続いた出来事が、まだ胸の中でぐるぐると回っていた。
『お前みたいなのが、本当のエゴ野郎って言うんだよ。』
普段はいたずらっ気に溢れている寛史の表情は、いつになく真剣だった。
昼休み、呼び出された屋上で、頭一つ高い俺の顔に伸び上がるようにして詰問した。
『話せって、言っただろうが。お前、全然わかってないんだよ。山藤の気持ちが!』
寛史も今日の朝、彼女の姿を見たのだ。誰もいない屋上への階段から下りてくる彼女の目は、明らかに涙の跡で赤かったと言う。
『確かに、俺は何があったか知らん。あんなに打ち込んでた野球をやめちまったわけもわからん。でも、それはお前の事情だろ?』
Yシャツの胸元に手を掛けると、普段細い目が、激しい光を帯びて俺を睨み付けていた。
『人のことも考えずに浸ってる野郎は、ダチなんかじゃねえ。いつまでも泣いてろ、ウジ虫野郎!』
最後は、寛史自身の溜めてきた怒りが俺に向けられているように感じた。
大きく息を吸い込み、吐き出した。
別に、自己中心的に考えてたわけじゃない。俺はもう、誰も煩わせたくなかったんだ。誰も、自分の世界に巻き込みたくなかった、それだけだったんだ。
それでも、山藤亜矢の気持ちは俺に向いていた。彼女の言葉、そしてあの時の表情・・・。多分、間違いはないと思う。
どうして、俺なんかに。もう、あの時の俺は何処にもいないというのに。
「あ、お兄ちゃんだ!」
小学校中学年位の男の子が、ネット裏のベンチに腰掛ける俺に気付いて声を上げた。
「ほんとだ!」
「おう!」
座ったまま手を上げると、キャッチボールの列の中央当りで指示を出していた中年の男性がこちらを見た。
中腰になって軽く頭を下げると、手招きをする。
「こっちに入れよ、森島君。」
赤い野球帽をかぶった監督とは、もう何度か練習に付き合って顔見知りになっていた。
「こんにちは。」
緑のネットの隙間から野球場に入ると、白髪のわずかに混じった監督は、穏やかな目で俺にバットを差し出す。
「どうせ、暇なんだろ。ノック、頼むよ。」
「また、無料奉仕っすか?」
「当たり前だ。私だって、無料奉仕だぞ。」
そして、パンパンと手を叩くと、
「おーい、キャッチボール終わり!ポジションについてノックだ。」
ブレザーを脱いでネクタイを外し、ワイシャツだけになると、渡されたバットのグリップを握る。手にしっくりと細い部分が収まると、ギュッと握り締めた。
胸の中で行き場をなくした想いが、解かれていくように感じた。
「いくぞ!サード!」
軟球を放ると、軽く合わせて簡単なゴロを転がす。比較的身体の大きな子が、流暢なステップで打球を捌くと、ファーストに勢いのあるボールを放った。
「もう一つ。」
今度は少しハーフバンド気味に。
監督から投げられるボールを、次々に内野へ外野へ、ゴロにフライにと打ち分けていく。
春の夕方の風にはまだ冷たさが残っているはずだった。
でも、ノックを続ける身体は次第に温かさを増して、かけ声も大きくなっていく。
夢中でバットを振り続ける内、辺りの景色は真っ赤に染まり始めていた。
「よーし、今日はここまで。」
監督の声が響いた時、俺の額には汗が滲んでいた。
上級生の掛け声で整理体操が始まると、帽子を取った監督が、ベンチでブレザーを着直している俺の方に近付いて声をかけた。
「最近、ご無沙汰だったじゃないか。さすがに新学期で忙しかったか?」
「いや・・・、そういうわけじゃないんですが。」
ナップを肩に掛けながら言葉を継ごうとすると、皺の目立つ口元が大きく笑って、バックネットの向こうを指差した。
「それより、あれ、森島君の待ち人なんじゃないか?」
緑のネットの向こう側に、ライトブルーに横縞状の模様が入ったタイトなスプリングセーターと、シンプルなオールドタイプのジーンスを履いた女の子が立っていた。
・・・山藤さん。どうしてここに。
「さ、女の子を待たせちゃいかんぞ。」
監督に背中をポンと叩かれて、押し出されるようにネット裏に歩き出す。
近付いていくと、彼女の大きな瞳はさらに見開かれ、まっすぐにこちらを見つめていた。
「あ、兄ちゃんのカノジョだ!」
後ろから小学生の声がした。
「こら、お前ら。そういうのを野暮っていうんだぞ。さ、行くぞ。」
「えー、俺、見てたいなあ。」
「こら!」
ぞろぞろと引き上げていく野球団の足音を後ろに、言うべき言葉が見つからずに立ち尽くしていた。
沈黙が、何分も続いたように感じた時、彼女の口がゆっくりと開いた。
「野球、辞めてなかったんだね。」
柔らかい笑みを浮かべて少しも淀むことなく見つめる表情が、胸の奥を締め付けて離さない。
「いや、辞めたんだよ。もう、昔みたいな球は二度と投げられない。」
「ううん。」
彼女は首を振った。
「辞めてないよ。関わり方が変わっただけ。きっと、辛かったのに・・・、あんなに打ち込んでたんだもの。それでも、あんな風に子供達にボールを打ってる。やっぱり、森島君だ。わたしの知ってる、タケちゃんだよ。」
違うよ、あの時の俺はもういない、と言葉にしかけて口をつぐんだ。そんな事を言って何になるだろう。
それより、温かい気持ちが胸の奥から溢れて身体全体が熱くなった。何もかもが流れていく、そう思っていた。でも、ここにいる女の子は、しっかりと二本の足で立って、今、俺を見つめていてくれる。
柔らかい風が吹いてくる。心の中を満たすように。
「森島君、ずっと、そして今も、大好きだよ。」
じっと見つめたまま、彼女は言って、そしてにっこり笑った。
「・・・やっと、言えた!」
大好き、が頭の中で何度もリフレインする。何か、答えなくてはいけない。彼女から、こんな風に言ってくれたんだから。
でも、なんて言えばいいんだろう。
突然、所在無く下がった俺の手を彼女の細い手が握った。
「なんにも言わないで。今は、森島君だって、答えがでるはずないもん。でも、友達にはなれるでしょう?」
「あ、ああ。」
それは、言うまでもないことだった。胸の高鳴りを感じながら、もう一方の手を重ねる。
「中学の時、言えば良かったね。そうすれば、手紙だって出せたし、いくら離れていても、力になれたと思うから。」
その言葉を聞いた時、わかった。俺の彼女に対する気持ちが何なのか、名前はつけられない。でも、ここにるのは決して他に代えられない唯一の人なのだと。
「山藤さん。いや、亜矢ちゃん。俺、亜矢ちゃんが戻ってきて嬉しいよ。・・・あ、俺も言えたよ、本当に言いたかったこと。」
握りかえした彼女の手が、何より大事なものに思えて、俺は長いことそのまま手を重ねていた。