第3章 プラトニック・ラブ -June-
最近の朝、わたしの日課はモーニングコールから始まる。
「起きろよ!」と枕元で叫ぶタヌキの目覚し時計の頭をボンッと叩くと、大きく伸びをした。
ステレオのスイッチを入れて、お気に入りのCDをトレイに乗せた。軽やかな弦の音が響き始め、わたしはモスグリーンのカーテンを開けて外を見る。
低い雲が垂れ込めていて、今にも泣き出しそうな空だった。
ありゃ・・・。降らないといいけれど。
今日、わたしは森島君と球場まで行くことになっていた。プロ野球のチケットが、わたしの父の会社経由で手に入ったからだ。
これってやっぱり、デートってことになるんだよね。
5月のあの日以来、わたし達はまたよく話すようになった。野球の試合のこと、わたしの部活のこと、罪のない芸能関係の話、そして、近づいてくる受験のこと・・・。
わたしは森島君にほとんど何でも話した。中学生の時とは少し違った親しさがわたし達の間に生まれ、それがとても心地よかった。
『ほんと、がんばってるよな、亜矢ちゃんは。』
亜矢ちゃん、と言われると今でも少しドキッとする。そして、そういう時に限って見つめる優しい瞳に胸が高鳴って、どこか決まり悪くなってしまう。
たぶん、彼もわたしの事をとても大事に思ってくれている。でも、何処かで触れられない部分があって、そのベールの向こうに手が届かない。それが少し不安だった。
でも、いいんだ。一歩一歩近付いて行こうと決めたんだから。
受話器を取ると、すっかり憶えてしまった番号を素早くプッシュする。
『はい。』
いつもよりずっと早く、彼の低い声が受話器から響いてきた。
「あ、起きてた?」
『ああ、どうしてだろうね、休みに限って目が覚めちゃうってのは。』
もう何度話したかわからないのに、こうして受話器を握っていると胸がドキドキする。美佳に言わせれば『少女マンガ娘』ってことになるんだろうけど、2年分の貯金があるんだから、当たり前だよ。
『・・・天気、よくないな。天気予報も見たけど、雨の確率80%だってさ。』
「ほんとに?まいったなあ。」
『でも、予定通りで行こう。駅前に9時半でいいよな。』
「うん、それでいいよ。」
通話が切れると、しばらく窓の外を見ていた。
彼の声が耳に残っている。さあ、服を選ばなきゃ。
そんなに大きくはない衣装入れを開けると、ハンガーに掛かった上着を何枚か取って、ベッドの上に投げた。
もう少し服を買っておくんだったなあ。今まで男の子と何処かに出掛けようなんて思わなかったから・・・。
白にロゴの入った、袖と襟だけが紫の長袖Tシャツと、デニムのフリンジスカートを選んだ。ベルトは、ベージュ系のが合うかな・・・。あと、ベストを付けて・・・、うん、野球観戦にも食事にも対応できそうだ。
その時、ふっ、と別のファクターが頭を掠めた。
でも、そんなことがあるのかな・・・。
考えただけで胸の辺りが苦しくなった。でも、もしかしてってこともある。
一番下の引き出しを開くと、畳まれた下着を見ながら考える。もし、そういうことがあったら、男の子はどんな下着が好みなんだろう・・・?
我ながらとんでもないことを考えているような気もした。まだ、彼でも彼女でもないのに。
あ、そうだ。
不意にこの前買った雑誌の特集記事が思い浮かんだ。『彼との夜に、最高の雰囲気で』
馬鹿みたいだ、と考える一方で、わたしは部屋の隅の雑誌の山を探し始めた。
駅で落ちあった後、電車に乗っている間も空模様が気になってしょうがなかった。
初めて見る私服の彼と2人並んでいると、やっぱりこれはデートになるんだな、と思った。初めてのデートだから、絶対に成功させたかった。
でも、待ち合わせの時間にパラパラと降り始めた雨は、食事をする頃にはすっかり本降りになっていた。
ああ、ついてない。これでは、試合は中止だろう。
「一応、入り口まで確認に行こうか。」
青と黒のポロシャツに、使い古した感じのジーンズ。飾らない、「らしい」格好の森島君と一緒に、雨の降る中を球場入り口へと向かった。
中止に間違いない状況で、わざわざ入り口まで足を運んでくれるのは、彼の優しさなんだと思う。だから、ダメでもがっかりした顔なんて見せないでおこう、そう思った。
「グラウンドコンディション悪化のため、中止」・・・。
予想通りの掲示に、覚悟はしていても残念な気持ちが拭い切れない。
「しょうがないよね、これじゃあ。」
雨粒が、うらめしい音を立てて傘の上で弾けていた。
「・・・どっか、行こうか?」
「ううん、いい。ご飯も食べたし、この雨じゃあ・・・。」
これ以上彼の負担にはなりたくなかった。いつもわたしを受け入れてくれる森島君。クラスの女子の中では「ネクラ」で通っているけれど、優しさと、たぶん、寂しさの裏返しであることをみんな知らない。
さ、元気を出して帰らないと。結構おいしいランチだったし、今日はそれで満足だ。
バサッ!
突然強い横風が吹き付けて、わたしの持っていた赤い傘は勢いよくひっくり返ってしまった。
「大丈夫か。」
うあ、最悪・・・。
手に響いた感触と、変なふうに垂れ下がったビニールで、傘が壊れたのは間違いないとわかった。
素早く自分の傘をかざした彼が、手に持った傘を調べてくれる。
「これは、ダメだな。しょうがないや。」
折れた傘を畳んでくれると、黒い大きな傘をこちらに掲げた。
「さ、行こう。」
相合傘だ、いい感じ。反射的に思った一方で、それはできない、とも考えた。
傘に入る、なんて誰でもすることだ。別に恋人でなくても。
でも、このままあやふやに距離が縮まっていくのが嫌だった。わたしの告白で、彼の想いが縛られていくのは。
「ううん、いい。」
首を振っていた。そして、雨の中に飛び出した。今日の気温、高いって言ってたものね。
「おい、おい。」
心配そうに言う彼。でも、大丈夫。憶えてるでしょう、中学の時も、こんな風に帰ったよ。練習試合の後で降り出した雨に、『ちょうどいいや、シャワー代わりだ!』って言った。それで、わたしも一緒に付き合ったんだから。
雨の中に立っていると、小さい頃聞いたレコードのフレーズが唐突に思い浮かんだ。
「ね、昔の歌でこういうの知ってる?」
振り向いて、彼の方を見ると小さな声で歌う。
「Raindrops keep fallin' on my heads……」
なんて調子はずれのことをしてるんだろう、そんな風にも思った。でも、雨の滴が髪から顔に流れ落ち始める中で歌い続けていると、妙に明るい気分になって、自然に足が前へ進んでいく。
あやふやな英語を重ねて最後まで歌い終わると、もう頭の先から爪先までびしょぬれだった。
「ああ、気持ちよかった。でも、濡れちゃったね。」
額にべっとりとついた髪の毛を掻き揚げながら言うと、彼の顔の上に、今まで見えなかった切迫した表情が浮かんだ。
黒い傘が傍らに放り投げられた。
「森島、君。」
突然抱きしめられて、一瞬頭が真っ白になった。とても、強い力だった。反射的に自分も彼の身体を抱き締めようとして、思い止まった。
きっと、わたしが雨の中で歌なんて唄ったから・・・。
そんなんじゃ嫌だ。わたしは、本当の彼の心の中にいたい・・・。
「・・・ヤダよ、わたし、本当の気持ちじゃなきゃ・・・。だって、わたしの気持ちの押し付けじゃ・・・・」
嫌だから、と言おうとした唇に、彼の唇が押し付けられて先の言葉が続けられなかった。
嘘・・・。わたし、キスしてる。
頭の中を様々な記憶と想いが通り過ぎていく。目を固く閉じて、彼の抱擁を拒否しようと思ったその時、合わさった胸から、激しい動悸が伝わってきた。そして、強く抱き締められ、肩に回された腕の温もり。
・・・この人が、好き。
この口づけ以上に確かなものはない。これが嘘なら、わたしは地獄までその嘘に付き合ってもいい。
後は何もわからなくなって唇を合わせあった。苦しくなった少し開いた口に、彼の舌が入ってくると、もう何も考えられなくなった。
「好きだよ、亜矢。」
顔を離して、目を見つめられると、身体中が震えて怖くなる。止めようとして胸に顔を預けると、彼の心臓の鼓動が聞こえた。時間が、止まってしまったように感じた。
どれくらい、そうやって抱き合っていたろう。もう一度雨の音が聞こえ始め、寒さが少し、背中をよぎっていった。
もう、何処かで身体を暖めないと。
身体を離すと、彼の顔を見た。すっかり髪の毛が濡れて、いつもはセットされた前髪も、べったりと頭にくっついている。
「ふふ、武史君も、ずぶ濡れだね。」
気負いもなく名前が呼べた。
「それに、なんか映画みたい。雨の中で、こんなことしてるんだもの。」
そうだ、絶対誰かに見られた!
なんて恥ずかしいことをしちゃたんだろう。
「ね・・・人に見られちゃったよね。」
「関係ないさ。見たい奴は見ればいいだろ。」
武史君は空を見上げて笑った。
あ、今の笑顔。
編入してから初めて見る表情だった。でも、わたしのよく知っている顔。
すごく気分がよかった。
(抱きしめて、武史君。)
心の中ではっきり言葉にしても、何一つ怖くなかった。
まさか、本当にこうなるなんて。
出掛ける前に読んだ女性雑誌を思い浮かべてしまう。
でも、少し悩んで選んだ下着にはなんの意味もなかった。だって、ずぶ濡れになっちゃったから。
ほんと、ああいう記事ほど当てにならないものもない。
そんな事を考えていられるくらい、気分は落ち着いていた。
今、彼の方がシャワーを浴びていた。わたしは裸のままでベッドの中で待っている。今から起こることが何か、よくわかっていたけれど、それは当然のことだと思う。それどころか、そうでなくてはいけない、と強く思った。
始まりは、キスからだった。
彼の手が、解いたわたしの髪に触れる。そして、手が柔らかく撫で下ろされると、それだけで頭の先に電気が走る。
合わせていただけの唇が自然に開き、彼の舌を受け入れる。
これが、キスなんだ・・・。
自然に彼の首から背中を抱き締めた。できるだけ応えたくて、自分から舌を絡めてもっと深いキスを求める。
全てが初めてなのに、少しも迷わなかった。
身体が少し離れ、身体を覆ったシーツに彼の手がかかった時も、恥ずかしさよりずっと、嬉しさの方が勝っていた。彼だけに見てもらえる、わたしの身体。
「いいよ。見て。わたしの身体・・・。武史君に見て欲しい。」
普段だったら絶対言えないような台詞も、自然に口をついて出ていた。
静かに上掛けが外されて、ライトの光の下で何もつけていない自分の体が浮かび上がった。
優しい愛撫が胸に、背中に繰り返される。彼の身体が動く度に、太ももの辺りに当るそこだけとても熱く、固いもの。
知識だけでしか知らなかった昂ぶりを肌に感じると、身体の中心で何かがゆるりと溶け出していくように感じる。
「ね、武史君のも見せて・・・。」
彼の全てを感じたかった。ただ、それだけだった。
肯いて身体を持ち上げた彼の下半身に視線を落とした。
・・・すごい。でも、すごく、綺麗。
おへそにくっつきそうに反り上がったペニス。初めて見るはずなのに、少しも違和感を感じなかった。
それより、時々苦しそうに動く様を見ていると、少しでも感じさせてあげたくなる。
そろそろと指を伸ばすと、5本の指で軽く掴んだ。
熱い。
また、身体の奥がジンとなった。もう、少し濡れはじめているのが自分でもわかった。
初めてなのに・・・。
少しだけ恥ずかしさを感じて、握った熱い昂まりを上下にさすった。どんな感じですればいいのかわからなかった。でも、こうすればきっと・・・。
手の中でビクッと跳ね上がると、武史君の表情が少し歪んだ。そして、再び優しい瞳がわたしを射る。
痛かった? それとも違うの?
「ごめん、わたし、よくわからないから。」
更に上下に動かすと、彼の手がわたしの手首を押さえた。
ああ、もっと感じさせてあげたい。彼のことなら、心でも、身体でも、全て知りたい。
「いいよ、俺だって、初めてだから。」
わたしの気持ちを見抜いたように彼が言う。そうだよね、これから2人で愛し合っていけるよね。
再び唇が合わさると、彼の愛撫はさっきよりずっと激しいものになっていた。唇が首筋に、肩に、鎖骨にと熱い吐息をかけながら動き回ると、温かく大きな手が背中やお尻の辺りで上下に刺激を送り込んでくる。
身体中が総毛立つような感じで、息が荒くなってくるのがわかった。
そして、彼の唇が乳首に当った時、頭の奥で何かが弾け始めるのがわかった。
わたし、初めてなのに、感じてる?
聞いていた話とはまったく違った感覚。そうか、武君が一生懸命愛してくれてるから・・・。
足の間で戸惑うような動きを繰り返していた彼の手を感じて、ゆっくりと足を広げた。すぐに答えを得たように、わたしの一番大事な場所に指が届く。
感じてるの、わかる?武史君。
濡れた場所に指が届くのを感じながら、薄目を開けて彼にうなずくと、せり上がっていった指が、わたしの一番敏感な部分を捉えた。
ヤダ・・・・。
足の爪先に力が入って、指の動きだけに意識が集中してしまう。わたしの反応に力を得たのか、指の動きはどんどんと増していく。
あ・・・。
「・・・やだ。」
自慰行為の時と同じ震えが身体を襲う。ビリビリとした感じが数秒続き、息が少しの間止まってしまう。
「どうした?」
彼の声に息を吐き出すと、恥ずかしさに耳が熱くなった。感覚はオナニーの時と同じでも、もっと充足感があった。
「・・・なんか、ちょっと感じちゃった。嘘みたい。」
彼の優しさのおかげだと思った。言葉にできない温かい共感のようなものが胸の内に広がって、彼の全てを受け止めたくなる。
「ね、来て。わたしの中に。武史君を感じたい。」
「ああ。」
間髪を入れずに答えた彼の目は、さっきより少し強い色を帯びていた。両足が抱え上げられ、さっきまで握り締めていた昂まりが足の付根に押し付けられる。ゴツッ、ゴツッと入り口の周辺に熱い感触が当るのがわかった。その先の位置に合わせるように、腰を上げて突き出し、丘の下に擦り付ける様にした。
痛い!
ギュッと入り口が擦れて先が潜り込んだ瞬間、今まで感じたことの無いような痛みが股間から湧きあがる。
でも、大丈夫。我慢できる。
彼の動きが止まり、入り口に太い棒が挟まった感じだけが残り、却って苦しい。
「いいよ、来て。大丈夫だから。」
言葉と同時に、彼は一気に突き入ってきた。腰の奥で何かがメリメリッといった様な気がして、気が遠くなる。両手を、痛みに耐えるために強く握り締める。それでも足りずに唇を強く噛み締めた。
再び彼の腰の動きが止まった。もう、奥まで昂まりが入り込んでいるのがわかる。ズキズキとした痛みが込み上げて、早くこの場所から逃げたくなった。
でも、彼を感じさせてあげなくちゃ。
「大丈夫、動いて。思ったより、痛くないから。」
早く、早く感じて。
出し入れが始まると、まるで身体の奥をヤスリで擦られているような痛みが走って、「やめて!」と言いたくなった。
でも、必死に腰を動かす彼の表情が霞んだ視野に見えた時、痛さと同時に愛おしさも込み上げて、なんとか叫びを上げずに済んだ。
「亜矢!」
身体の中で彼の昂まりがグッと動くのと、彼がわたしを抱き締めたのはほとんど同時だった。そして、何か温かいものが身体の中に流れ込んでくる。
痛みの中で、耳元から彼の荒い息が聞こえる。
・・・よかった。武史君、わたしで感じられたんだよね。
今まで感じた記憶のない充足感があって、一時痛みを忘れた。全身の感覚が戻って、握り締めていたのが彼の背中だと気付いた。手を離すと、5本の指先に血糊がついていた。
彼が身体を離し、昂まりが抜き取られると、また擦るような痛みを感じたが、最初の時の比ではなかった。
「大丈夫?」
うなずくと、手を示して言った。
「・・・背中、血出ちゃったね。」
裸の背中を確かめると、彼はほうと言う感じで自分の手を見た。
「俺なんて、どうでもいいよ。亜矢こそ、大丈夫か。」
「大丈夫。ほんとに、思ったより痛くなかったから。」
本心だった。武史君が優しくしてくれたから、痛かったのは身体だけ。
ほっとしたような彼の顔に、少し確かめたくなる。
「中で、しちゃったよね。どうする?もしかするよ。」
本当は、生理が終わったばっかりなんだけれど。
「・・・そうなったら、すぐに指輪をあげるよ。」
思ったよりずっと真剣な表情で答えた彼に、一瞬驚いて、その後で潮が満ちるような幸せを感じた。
「ありがとう。」
そして、わたし達はキスをした。
「大好きだよ、武史君。何度でも言うから。大好き。大好き。」
身体の痛みよりずっと、この人の本当の恋人でいられることが嬉しくて、何度でもこの言葉を繰り返していたかった。