第6章 想いを超えて -Octorber,November-

 ずっと秋は好きではなかった。でも、今では高校3年の日々が自分の原点なのだと信じている。中学時代で一度途切れてしまった、生きていくことへの確かな手応え。そして、あの秋に亜矢と二人で取り戻した新しい大地。


 十月に入っても亜矢と俺は、できる限り下校の時間を共にしていた。三年生の誰もが受験へのエスカレーターに乗り込んで行く中、亜矢も例外ではなく、受験勉強や模試などに追われる毎日だった。
 それでも時間のある日曜日や祝日にはデートをして、ベッドを共にする時もあった。
 ただ、会話をする時も、身体を合わせる時も、噛み合わない何かを感じて続けていた。彼女は無邪気に大学生活のことを話さなくなり、目を見つめて、唇を合わせれば全てが分かるような気がした日々は、後ろに過ぎ去ってしまった。
 俺は、亜矢が好きだ。それはどんなことがあっても間違いない。
 背筋を伸ばして軽やかに歩む姿と同じように、彼女の見つめる先も広い未来へと真っ直ぐに伸びている。どんなことがあっても、その美しい眺めを傷つけまい、そして、俺の力の限りで守りたいと思っている。
 でも一方で言葉を交わし、抱き締める度に感じてしまう。
 全てを分かり合うことはきっと無理なのだ。ならば俺は、彼女の何処に住んでいるのだろうか、と。
 自宅で母の姿を見られてしまった次の週、放課後の教室で俺達は向かい合っていた。
「日曜日、びっくりしただろ?母親があんな調子でさ。」
「う、うん。ちょっとね。」
 亜矢の瞳が、不安げに揺れていた。それでも聞いて欲しかった。マンションから彼女がいなくなった後の、あの空虚な想いをこれ以上抱え続けていることはできそうになかった。
「亜矢がまだこっちにいた頃からなんだけどさ、すっかり家の中がおかしくなっちゃてね。ま、どうしてかはだいたいわかってるんだけどさ。」
 できるだけ軽い調子で言おうと心がけていた。亜矢の家が外資系の企業に勤める父親を中心に、しっかりした家庭を作っていることは、よく知っていたから。
「オヤジは女のところにいったままになっちまうし、金も入れないし。だから、おふくろもいろいろ仕事探して、最後は飲み屋勤めってわけ。おれもさ、ちょこちょこ内緒でバイトしたりしてたんだけど、学校じゃ禁止だろ?高校やめようかなとも思ったんだけど、後のこと考えれば、なんとか出とこうと思ってさ。」
 亜矢は、唇を結んで、視線を机の上に落としていた。
「・・・びっくりしたろ?亜矢のいた頃、俺んちも結構楽しくやってるように見えたろうから。」
 しばらく考え込むように瞳を動かした後で、無理に笑いを浮かべたように見えた亜矢の口から発された言葉。
「大丈夫。わたし、正直な気持ち、よくわからないけど。うちなんかとは全然違うから。なんて言うのか、家族があるのって普通で、疑うのがすごく難しい。でも、気にしないよ。だって・・・・」
 大丈夫。よくわからない・・・・。二つの言葉が鉛のように頭の奥底に残り、次の言葉が出なくなってしまった。どうしようもなく取り残されたような気分が満ちていった。
 そして、俺は気付いた。
 再会してからずっと、どんなに自分のことを亜矢に話したかったか。そして、知って欲しかったか。
 でも今それは、心の中で恐れていた結果に重なってしまった。
 怒り、いや、憎しみに近い感情が顔を覗かせるのを止めることができなかった。
 そのあと、どんな会話をしたかはほとんど憶えていない。ただ、数時間後には亜矢の同意を全く求めず、強引にベッドに押し倒していた。
 キスも、愛撫もすることなく、無言で制服を剥ぎ取り、下着を取り去った。
「・・・怖いよ、武史くん。」
 胸の上で組み合わせた両手に手を掛けて解き、乳房を強く掴み上げた。そして、足の間の部分を確かめると、まるで湿り気を帯びていないそこに、自分の昂まりを強引に挿し込んだ。
 亜矢の形の良い眉が、痛みに大きく歪むのが見えた。
 それでも、だからこそなお、俺は止まらなかった。
 ・・・そして、精を放った。
 今までの交わりでは一度も感じなかった空虚な気分が背中に残っていた。ぼんやりとこちらを見ている彼女を、それでもなお、思う通りにしたいと感じる衝動が消えていかなかった。
 見覚えのある感情だった。多分、中学の時に両親に抱いた感情とよく似ている、そんな風にも思った。
「ごめん、亜矢。」
 俺は目を閉じて、息を吐いた。騒いでいた胸の内の波が収まって行くと、自責の念が沸き上がってきた。ただそれは、静かな孤独も伴っているように感じていた。
 あの時亜矢は、ベッドライトの下でゆっくりと首を振った。『大丈夫だよ』と言うように。
 悲しみにも似た気持ちが込み上げてきて、どう対処していいのかわからなかった。
「・・・俺は、亜矢と一緒に進んでいけないのかな。よくわからないよ。」
 亜矢はまだ無言だった。
 ただ、ゆっくりと差し出された柔らかい手が、座った俺の手に重ねられた。温かさが心に届いて、染み渡っていくのを感じた。
 そして俺は、少なくとも亜矢の前に立ち塞がるようなことだけはすまいと、強く心に決めたのだ。
 それからはまた、いつもの日々が戻ってきた。けれど夏の終わりまでの自然さは消えて、いつも何処かでぎこちなさが残った。きっと、亜矢も同じように感じていると思う。
 俺には、これ以上どうしていいのかわからなかった。このまま亜矢のことを強く思えば、きっとその想いは怒りや憎しみに変わってしまうだろう。
 再び俺の足は、街に向くことが多くなっていった。亜矢と駅で別れた後、ネオンが灯った繁華街をあてもなく歩く。学生や仕事帰りのサラリーマン、着飾った若い女性、腕を組んで歩くカップル。夜が更けるにつれ人の行き交いは増して、その海の中にさまよっていれば、居場所のないことなどどうでもいいような気がしてくる。
 亜矢と会うまで、よくこうして街を歩いた。あの時は、あてもなくさまよっていれば何かが満たされるような気がしていた。
 でも今は、時折彼女の顔が浮かぶ。こんな時でも心の中に残る声が、『武史君。』と明るく呼びかけてくれていた。
 今日もそうして歩いた後、繁華街の外れに流れ着いた。こんな夜には、『ミラノハウス』の狭いドアをくぐるのが習慣だった。
 カバンを背中に担ぐと、左手で木の扉を開ける。ドアベルがカランカランと鳴って、ガーリックオイルの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。後ろ手にドアを閉めて、視線を上げた。
「・・・ちわ。マスター。」
 お客が一人、カウンターだけの店内の高い椅子に座っていた。付属の紺のブレザーにえんじのネクタイ。湯気の上がるパスタを口に運びながら、優しく輝く瞳がこちらを見つめていた。
「亜矢。」
 どうしてこの子は、こんな風に俺を驚かせるのだろう。
「来ちゃった。ここで待ってれば会えるかも、って聞いたから。」
 そしてにっこりと笑った。
「ほら、何突っ立ってんだよ。彼女、お待ちかねだぞ。」
 カウンターから出てきたマスターが、すれ違いながら背中を押した。そして、脇の棚から『準備中』の札を取ると、ドアの外に掛ける。口髭の目立つ顔が振り向くと、
「ちょっと買い出しに行ってくるよ。気にせずゆっくりしてってな。」
言うなり、外へと出ていった。
「・・・寛史だな。」
 この店の椅子に、亜矢が座っているのは妙な感じだった。
「うん。でも、怒らないでね。わたしが無理矢理聞いたんだから。」
 カバンを置くと、亜矢の隣に腰掛けた。
「・・・食べる?おいしいよ。」
 彼女は食べかけのパスタを差し出した。ベージュの皿に乗って湯気を立てているのは、マスター得意のキノコのペペロンチーノだった。
「知ってるよ。絶妙なんだよな、特別な味付けをしてるようには見えないんだけど。」
「多分、オリーブオイルがいいんだよ。ほら。」
 フォークが器用にパスタを絡め取ると、口の前に突き出される。
「いいよ、腹一杯だし。」
「嘘ばっかり。」
 軽く下から睨み付けると、強引に口の中にパスタを押し込まれた。亜矢の言うとおり、学校を後にしてから、ゲーセンでコーヒーを飲んだくらいで何も食べていなかった。無理矢理入れられたはずのパスタは、味わうのもそこそこに、音を立てて胃の中に吸い込まれて行く。
「ほら、食べて。」
 皿ごと俺の方へ寄越すと、肘を突いて前を見た。
「亜矢は?」
「わたしこそ、お腹いっぱいだから。武史君、むかしから大食いでしょ。そんな身体してるんだから、食べないともたないよ。」
 俺は差し出されたフォークを取ると、勢いよく口に運び始めた。
「ね、武史君。」
 しばらく経った後、前を向いたままの亜矢がゆっくりと口を開いた。
「・・・わたしの前では無理しないで。わたしも、肩肘はらないから。」
 その穏やかな声が、俺の中の想いをもう一度呼び起こす。でも・・・。
 俺は、心の中で首を振った。亜矢のおかげで踏み出した一歩を、もう一度元に戻すのか。
「・・・少し、歩かないか。こんな夜遅くだけれど。」
 亜矢は俺の方を向くと、大きく頷いた。


 夜の中央公園は、11月の風が冷たかった。でも、こうして腕を組んで歩いていると、亜矢の鼓動が腕に伝わってそれほどに寒さを感じない。
「別に、野球を続けられないわけじゃなかったんだ。もちろん、ピッチャーはもう無理だったろうけれど。」
「だよね。武史君、バッティングだって、ピカイチだったもん。」
 亜矢は、時折相づちを打ちながら、静かに耳を傾けてくれていた。
「でもさ、肘を痛めて家にいる日が多くなって、初めて気付いたことがあったんだよ。本当は俺は、野球が何より好きでやっていたわけじゃなかったんだ、って。」
 こうして話していると、他人のことを話しているような気さえした。高校に上がる頃から延々と繰り返された、両親の無意味な争い。
「俺の存在はフックだったんだ。一人息子の俺が、リトルでも、中学でも、ずば抜けた選手であることで、あの二人の接着剤として機能してた。俺はそれに気付かないで、必死にボールを追ってったわけ。その俺が挫折すれば、あの両親の間には何も残ってない。あとは、罵り合い、憎み合うだけだ。もっとも、野球馬鹿だった俺が、そういう両親の状態に気付いてなかっただけかもしれないけれどな。」
 街の光が見下ろせる場所まで来ると、絡んでいた亜矢の腕が、歩みを止めるように俺の身体を引いた。少し小高くなったこの場所には、背の高い広葉樹を揺らす風の音が響くだけで、他の音はほとんどしなかった。
「オヤジが家を出て、おふくろもあんな調子になる中で、なんとか肘を直して野球部に戻った。・・・でももう、俺にはボールを追う理由がわからなくなってたんだ。それどころか、自分が何のために生きているのかも。だから・・・・」
 亜矢に会った時、大好きだって言ってくれた時、どんなに嬉しかったか。
 そんな風に言いたかった。でも、言葉にできない。それが俺の押し付けなら、きっと、両親と同じ事を亜矢にしてしまう。
 亜矢の腕がスッと解かれると、俺の前に立った。
「ね、武史君。わたしを見て。」
 月の淡い光に照らされて、白い肌が輝いて見えた。
「わたし、ここにいるよ。」
 そして、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「武史君の見てきたこと、わたし、無理にわかろうとは思わない。そんな事、わたしの持ってる材料じゃ無理だもの。でも、今、武史君と一緒にいられる。幼なじみのタケちゃんでも、中学の時の憧れの人でもないよ。今の森島武史だもん、わたしが抱き締めるのは。・・・ね、一緒に歩いていこう。」
 どうしてだろう、彼女の顔が霞んで見えない。全てのわだかまりが溶けて行く。ただただ、愛しくて、彼女を強く抱き締めると、華奢な肩に顔を埋めた。
 涙が、頬を伝っていた。
 亜矢の手が、俺の背中に柔らかく添えられている。彼女の想い全てが伝わってきて、更に両手に力を込めた。
 どれくらいそうしていたのだろう。身体を離した時、亜矢はまだ俺の顔を見つめていた。
「もっと、抱き締めて欲しいな。わたし・・・。」
 俺の言いたい言葉だった。
「でも、もう8時回ってるだろ、俺の家まで行くわけにもいかないし・・・。」
「大丈夫。」
 言って、地面に落とされていたカバンを開けた。
 ホテルパレード5割引き優待券?
 差し出されたうす緑色のチケットには、綺麗に装飾された字でそう書いてあった。
「亜矢・・・。」
「美佳にもらっちゃった。・・・嫌だった? 」
「いいや、全然そんなことないよ。」
 俺は、もう一度腕を差し出した。自然に、身体を寄せる亜矢。
「・・・そうだよな、一緒に歩こう。無理しないでさ。」
 亜矢が頷きながら、強く腕を絡めるのが嬉しかった。


 部屋に入ると、亜矢と俺は唇を合わせ、制服を床に落とした。そして、そのまま柔らかいベッドの上に折り重なって倒れ込んだ。
 唇の求め合いはそれほど激しいものではなかったけれど、とても長く続いた。啄ばむように、そして舌を触れ合い、より深く吸い上げあったり。俺の後ろに廻された亜矢の手が頭から背中へゆっくりと愛撫を繰り返している。それが心地良くて、いつまでもこうしていたいほどだった。
 やがて、裸の胸を亜矢の唇が這い下りて行く。張りのある胸の頂きが、身体を撫でるのを感じると、トランクス一枚の中で、俺のものは急速に昂まっていく。
 亜矢の手がトランクスにかかると、ゆっくりと下ろした。
 そして、両手が根元を押え込むと、先端がじっとりと唇に包み込まれる。その部分だけで緩やかな上下動が続くと、唇が離れ、温かい息とともにざらざらした舌の感触が、裏側の敏感な部分を幾度も舐め上げる。
 全てが無言のままで、でも少しの違和感もなかった。
 俺は、目を閉じて亜矢の唇を感じながら、少し身体を斜にした胸や、耳元をくすぐるように愛撫し続けた。
 やがて亜矢の唇は幹の部分を滑り落ち、縮み始めた袋の辺りをゆっくりと這う。その間も、手の動きは止まることなく先端や幹に刺激を送り続けていた。
 今までされたことのない愛し方に、俺はすぐに追い込まれてしまった。
 再び根元が押え込まれ、今度は深く咥え込まれた。最初はゆっくりだった抽送が、少しのひねりを加えながらスピードを上げていく。喉の奥だろうか、突き当たる度に、髪が腰に当たってくすぐったいような感触がさらに身体の奥を刺激する。
 袋にあてがわれた手が、やんわりと握り締められ、先端が喉の奥に当たった瞬間、何の前触れもなく精が噴出した。
 ビク、ビクッと震える剛直をさらに深く咥えると、その間も舌が柔らかに刺激を繰り返していた。そのまま、俺の精を喉の奥へと嚥下していく姿に、頭の奥が痺れるような感覚に満たされていた。
 全てが噴き出した後、唇を離した亜矢と、自然に視線が絡んだ。俺の両脇に手を突いて、上半身を持ち上げた彼女の胸に、両手を添えて舌を這わせる。すっかり充血し隆起している乳首に軽く歯を当てて、横に擦るようにすると、頭の上で亜矢の頤がぐっと前にせり出されるのがわかった。
 左手を浮き上がった腰の間へと探り下ろすと、草むらの中のそこは、太ももの付根までも官能のしるしを流れ出していた。
 そして俺の昂まりも、信じられないほどのスピードで復活していく。
 亜矢は、そのまま身体をせり上がらせると、俺の剛直を手で確かめるようにして、自分の中へ導いた。
「ん。」
 小さく声が聞こえた。
 淡い光の中で、俺の太ももに両手を突いた亜矢が、激しく腰を動かす。結ばれていた髪が、解けて顔にかかっていた。それでも俺のものを捉えたままの彼女の秘所は、今まで感じたことがないほど潤っているのがわかった。
 一度身体を離し、手を腰に当ててうつ伏せになるように促す。意図を汲み取った亜矢が、四つんばいになると、突き出され、赤く広がる柔肉の重層の中へ、もう一度昂まりを突き入れた。形のいい白い稜線に手を添えると、ゆっくりと抽送を繰り返す。頭を落としてこらえている亜矢の口から、低い声が幾度か漏れた。
 その体勢のまま、胸に手を当てると亜矢の身体を引き起こした。俺の胸と、亜矢の背中が密着する形になって、乱れた髪の下の耳たぶに舌を這わせると、右手を草むらの中へと下げていく。指先で固くなった核を見つけ出すと、二本の指で根元を擦り上げるようにした。
「あ、あ、あ・・・。」
 ずっと無言だった亜矢の唇から、上ずった高い声が漏れ始めた。同時に、俺を包み込んでいる中の壁が、もう、達した時のように蠢き始めている。でも、まだ彼女が頂きに至っていないのは確かだった。
「も、もうだめ。ね、抱き締めて・・・。」
 後ろから抱いていた手を解くと、自分から仰向けになった亜矢の上気した顔を見つめた。それまで焦点が合っていなかった瞳が俺を捉えると、不意に大きく広げられた両手の中へ身体を滑り込ませ、激しくキスをした。
 そして、再び膣へと割り込むと、今度は激しく腰を律動させる。
 俺の息もどんどん荒くなり、亜矢の口からは絶え間なく高い声が漏れる。
「た、けし・・・。好き。ううん、愛してる。誰より・・・。」
 目を固く閉じた彼女の口から発された言葉が、俺の心と身体を烈火のように燃え上がらせた。
「俺もだ、亜矢。」
「もう、一緒に、気持ち良くなろ・・・。」
 限界まで腰の動きを早めると、ああああ、と断続的に高い声が亜矢の口から漏れた。
 突然、剛直を包み込んでいた内壁の全体が、キュッと締め付けるような動きをした。その激しい動きに、俺も二度目の山へと一気に誘われた。
「やだ、変になっちゃう、たけし・・・、感じちゃうよぉ。]
「いいよ、亜矢。」
 全身を痺れが突き抜けていった。二人のうめき声が重なり、白い光が弾けた。
 官能の頂きが通り過ぎた後も、しばらく口を開くことができなかった。
 心も身体も満ち足りて、言葉を発するとこの瞬間が消えていってしまいそうな気がするほどに、時の流れをそこに感じていた。
「・・・こんなに気持ち良くなれるんだね。」
 身体を離した後、最初に口を開いたのは亜矢だった。まだ荒い息を吐きながら、首だけをこちらに向けると、俺の肩に手を触れた。
「わたし、今の武史くんが一番いい。」
「武史でいいよ。亜矢。」
「うん。」
 頷くと、身体を返して俺の胸に頭を預けた。上気して赤みを帯びた身体が温かかった。
「武史、愛してるよ。」
 俺は、目を閉じた。触れ合っている身体が、どちらのものがわからなくなる。そして、亜矢の想いが言葉を超えて広がっていくのがはっきりとわかった。
 そして、俺は知った。
 手に入れられないとあきらめていた場所に、自分が立っていることに。
「ありがとう、亜矢。愛してるよ。」
 呟いた俺の手に、彼女の細い手が重ねられた。指を絡ませ合うと、言葉にできない柔らかい気持ちに身を委ねていた。

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