第7章 深まる愛  -December-

 来週はいよいよ、第9の演奏会だった。リハーサルも終わって、練習は最後の追い込みに入っていた。オーケストラのバックで「歓喜の歌」を歌うのはずっとわたしの夢だったし、その日が待ち遠しいのは確かだった。
 でも、どんなに忙しくても、遅くなっても、この日課だけは外さない。
 この高校の図書室は受験シーズンになると、三年生限定の学習室として午後8時まで開放されることになっていた。
『俺、大学目指してみるよ。』
 武史君が言った時、わたしはとても嬉しかった。一緒に受験に向けてがんばっていけることもあったけれど、何より、武史君がその後口にした理由が。
『トレーニングや、コーチングの理論をやってみたいんだ。やっぱり、基礎ができていないと、ちゃんとした指導者にはなれないしね。』
 そして、一つの曇りもない笑顔で続けた。
『結局、俺にはこれしかないしさ。』
 音楽室から図書室のある理科棟へ向かいながら、あの時の武史君の表情が思い浮かんで、ほくそえんでしまう。
 今では時々、「武史」と呼び捨てにするときもあるけれど、やっぱり少し恥ずかしかった。幼い時からの想い出がたくさんあって、いくつもの彼がわたしの中に生きている。そのどれもが全部大事で、抱き締めていきたいものだった。
 階段を上がって、書庫の隣の第2閲覧室のドアを開ける。綺麗に並んだ大きな閲覧机では、14、5人が目とペンを走らせていた。
 窓際のいつもの一角。いた。一際大柄な紺のブレザー姿。
 あーっ、もう。
 わたしの姿に気がつくと、武史君は大きく手を振った。すっかり短く刈り揃えられた髪の下で、目が嬉しそうに輝いていた。
 彼の周辺の幾人かが顔を上げてわたしの方を見たけれど、すぐ面白くなさそうに机の上に視線を戻した。
 3−Cの『美女と野獣』と、この一ヶ月で3年生はおろか、下の階、果ては先生にまでからかわれるようになってしまった。でも正直、結構嬉しかったりするんだけれど。
「遅かったね。」
 隣に座ると、武史君は小声で言った。
「うん、ちょっと音が合わなくて。」
カバンを開けると、問題集とノートを机の上に広げる。
「・・・進んでる?」
「最悪だよ。まったくわからん。」
「数列なんて、頭で考えちゃだめだよ。手順だけでいいんだから。」
 言葉とは裏腹に、武史君の表情は明るかった。それに、わたしが驚くくらい次々に課題をクリアしていく姿に、目標の都内国公立大学に届くような気がしてきていた。
 さて、わたしもがんばらなきゃ。
 二人で並んでノートにシャーペンを走らせ始め、ふと気がつくと辺りはすっかり闇に包まれていた。
 閲覧室には誰もいなくなっていた。暗い窓の上に掛けられた丸時計の針は、もう7時半を指している。
 ふと左に気配を感じてノートから目を離すと、片肘をついて顎を乗せた武史君が、わたしを見つめていた。
 わたしも自然に彼に視線を合わせた。黒い瞳の中に絶対に間違いのない色があって、胸の鼓動が急に近くなっていく。無造作に置かれていた手を武史君の手の上に重ねると、指が絡まって引き寄せられる。
「た、武史君。」
 ここが図書室であることを思い出して、辺りに目を配った。司書教諭が座っている席は、ここからは本棚が死角になって見えない。
「亜矢。」
 低い声で言われると、もう状況はどうでもよくなっていた。唇と唇が合わさった瞬間、身体中にジンとした感覚が走り抜ける。ちょっとだけ舌の先が触れ合った後で、顔を離した。
 本当は、もっと一緒にいたかった。
 部の練習が最後の追い込みに入って、武史君の受験宣言があった後、デートをする時間がほとんど取れなくなってしまった。
「俺、亜矢と愛し合いたいな。」
 小さな声で彼が囁く。今日も時間はなかった。
 ・・・でも、わたしだって。
 合わさった手と手の間で、指が絡まる。
 気持ちだけじゃなかった。家にいても時々、ふと武史君に抱かれている自分を想像してしまっていることがあった。内緒だけど、外で余り会えなくなってから何回かひとりHもしてる。でも、わたしが特にエッチてわけじゃないと思う。やっぱり、女の子にも性欲ってあるんだなあ、と実感したばかりだった。
 指がこすれ合うだけで、身体が少しずつ熱くなっていく。そして、少し身体を斜にした彼のもう一方の手が、膝の辺りに添えられた。
 それだけで、小さな電気が走る。
 やだ、今日はすごく感じやすくなってるかも。
 机の下で、武史君の大きな手が、ゆるゆると内腿の方へと入り込んで来た。じわじわと身体の奥から兆す感覚が、思考力を奪いかけるのがわかった。
 あ。
 一番奥の部分にまで指が届いた瞬間、わたしは膝を合わせて彼の手の動きを封じた。
「ダメ。図書室だよ。」
 愛し合うなら、中途半端は嫌だった。武史君は、手を離すと少し考えるように視線を脇に泳がせた。
「・・・別の場所なら、いい?」
「でも、もう時間がないから。」
 9時半には帰宅しないといけなかった。何処かに寄っている時間がないのは、いつもの通りだった。
 でも武史君は、少し俯いてから照れた調子で告げた。
「あのさ、ちょっとしたポイントを見つけたから。」
「ポイント?」
「そう。多分大丈夫だと思うんだ。」
 素早く参考書をかばんに詰めると、武史君はわたしの手を握って立ち上がった。


 え、こんな所で。最初はそう思った。
 すっかり暗くなった本館の階段を上り詰めた鉄扉の先、風の吹く屋上の一角に、広さ10畳くらいのコンクリート造りの建物があった。
 街の灯と月の光に照らされた中には、望遠鏡のようなものが5、6脚並んでいた。
 『天文部観測室』。ひんやりしたその部屋の中に入ると、さらに奥まった部屋に毛布が数枚畳まれて置かれていた。
 小さな電気ストーブのスイッチをつけた武史君が、四方の大きなガラス窓からの淡い光に照らされて、ゆっくりと立ち上がった。
 どうしよう・・・。学校でなんて。
 迷う暇もなく、武史君の手がわたしの腰を捉えていた。スカートの上からお尻を愛撫された瞬間、わたしの理性は何処かへ飛んでいってしまう。
 だって、ずっと、ここのところずーっと、こうしたかったから。
 わたしも両手を武史君の腰に回すと、身体を密着させた。まだ暖まらない部屋の中で、耳元に近づいた唇の感覚に背筋が震えた。時々揺らめいて影を落とす街の明かり。そして、窓の外の広い空から降る星の光。
 唇が耳元から首筋へ下りていく。密着した身体の間で、スカートの上からでも彼の昂まりを感じて。
 太腿を触りながら忍び込んできた手に促されるままに後ろを向いた。窓枠に手を突いて、お尻を突き出す形になる。
 そして、たくし上げられるスカート。
 お尻を覆っているのは、サイドがストラップになっている布の少ないショーツ。淡いパープルの、濃淡のついた花柄レースで、肌が透けて見えそうな感じのものだった。
 朝、なんとなくこんなのを選んだ時から、気分はこっちを向いてたのかな・・・。
 武史君の手が、剥き出しになったわたしのお尻に触れた。
「結構、Hな下着。やっぱり、亜矢もしたかった?」
「・・・うん。」
 スカートが毛布の上に落とされて、ショーツの脇から指が入ってくると、感覚は下半身だけに集中し始めてた。
 でも、Yシャツとブレザーを着たまま、お尻を突き出してる状態が、違った感覚で頭の何処かを刺激してる。
 あ・・・。
 前に回された手が、たぶんすっかり潤んでしまってるはずの中心を捉えた。
 最初はそろそろと周りを擦るような動き。時々、敏感な膨らみに触れながら、入り口周辺で指が動きまわると、それだけで頭の奥が痺れて・・・。
 後ろに手を伸ばすと、武史君もいつの間にかズボンを脱いでいた。すっかり元気になっている昂まりに、指を絡める。確かめながらふくらんだ先の部分に指で刺激を送る。
 わたし、完全に暴走気味・・・。
 動き回る指が、気持ちより身体を先に持っていくのがわかった。
「・・・武史、入れて・・・」
 なんてこと言ってるんだろ。
 そう思ったのは一瞬で、背中から覆い被さられて入ってきた昂まりが、快感だけに感覚を埋め尽くしてく。
 武史君のも、凄く大きい。
 お尻のふくらみに手がかけられて、激しく突き入れられる。足がどんどん開いて、お尻をさらに突き出す格好になってしまう。彼の両手に力が入って、押し広げられ、更に深く入り込んでくる昂まり。そして、全部見えてしまっている恥ずかしさが重なって、身体の奥からあの震えが近づいているのがわかる。
 でも、まだ。まだ感じたくない。
 小さな波をやり過ごすと、抽送の速度が落ちた。
 そして、お尻に添えられた手が・・・、え・・・。
 思わぬ場所に指の感触を感じた。見えちゃってるのは、わかってたけど、でも。
 柔らかく擦られるようにすると、くすぐったいような感覚が広がって・・・。
 すごい所に触られてるはずなのに、身体中にじわじわと広がる快感に飲み込まれて、当たり前のように思える。それでも腰を振って、少し嫌がる素振り。
「嫌だった? なんか、見えちゃうから、触りたくなった。」
 そんなこと、聞かないで。
「ううん、びっくりしただけ。」
 武史にだったら、どこに触られたって平気だから。
 指がその部分に触れたまま、再び動きが激しくなり始めた。膝ががくがくして、窓にべったりともたれかかってしまう。
 それでもどんどん腰の動きはピッチを上げて、わたしも自然に後ろへと自分を密着させてしまう。お尻の間で柔らかく押し付けてくる感覚が、さらに火をつけて止まらなくなる。
 そして、わたしの中の昂まりが大きく膨らんで、シグナルを送ってきた。
 いきそうだよね、武史も。わたしも、感じたい。
「亜矢、いい?」
「う、う・・」
 もう言葉にならない。全部の感覚が身体の中心だけに集まって、感じて感じて、と囁いている。
「き、きもち・・」
 Yシャツの中に潜り込んで乳房に添えられた手、耳元にかかる息、お尻の奥に触れている指、そして、身体の中心を満たしている彼のモノ。
 全部が一点で爆発した。
「・・いい!」
 そして、彼の迸りを感じ取った瞬間、時間は止まっていた。


 第2楽章が終わって、合唱部の入場が始まった時、暗いホールの中の武史君の姿を探していた。
 クラシックに興味がないのは知っていたけれど、今日だけはどうしても見て欲しかった。
 『歌は好きだから』。ならばきっと、この曲の美しさがわかるはずだと思う。
 武史君が全てをわたしに見て欲しかったように、わたしも歌っているわたしを知って欲しかった。
 光に満ちたステージを見上げる観客の顔の中、ホールの中ほどにその姿はあった。
 あ、やっぱり。
 遠目に見ても、身体が大きく斜めになっているのがわかった。
 無理もないと思った。連日の受験勉強に、聞いたことのない交響曲。ただでさえ眠くなる要素が大きいのに、第9は長いから。
 でも、第4楽章に入ったら、絶対に目を覚まさせてあげる。
 今日の歌は、全て彼のために捧げよう。
 最初からそう決めていた。合唱する者としてはあるまじき態度だけれど、そう思った時に一番いい声が出ていることに、最近気付いた。
 目を閉じて春から今日までにあったことを思う。そのほとんど全てが、武史君の色で埋め尽くされていた。
 目を開けた。そして、しばし音が消えた後、第4楽章が始まった。


 コンサート終了後のロビーは人で溢れかえっていた。
 そこかしこに人の輪ができて、わたしも美佳や、数人の友達に囲まれて、コンサートの成功を祝福されていた。ただその間も、彼の姿を探してロビー全体の眺めに目をやっていた。
 みんながくれたたくさんの言葉は、どれも嬉しいものばかりだった。これがきっかけで、少しでもクラッシックの魅力に気付いてくれる人が増えたら、それはもう、望むまでもない幸せだと思う。
 でも、どんな感想でもいい、今一番に聞きたいのは武史君の言葉だった。
 やがて人がまばらになり、控え室で帰り支度を始めても、彼の姿はどこにもなかった。
 帰っちゃったのかな・・・。
 ベージュのダッフルコートを羽織って、マフラーを首に巻き付けると、一人で帰路につく。他のみんなは、今日だけは羽目を外す、と言って街へ出掛けていった。
 市の文化会館と、暗くなり始めた空を後ろに、噴水広場に続く大階段を下っていった。
 こんなことなら、みんなと街へ行くんだったかなあ。
 風が冷たかった。もう、12月も後半。まばらに立ち並ぶ公園の木々もすっかり冬支度で、葉を落として少し寂しげに見える。
 水の止まった噴水を回り込んで、公園の出口へ向かおうとした時、背中から声がした。
 振り向くと、向こうの遊歩道から小さな影が走ってくる。
 ・・・武史君。
 猛スピードで駆けてくるその姿はみるみる大きくなり、わたしの前で膝に手を突いて荒い息を吐いた。えんじのハーフコートの肩が苦しそうに上下している。短く切り揃えられた髪の下で、角張った額から汗が滲んでいた。
「大丈夫?」
「ご、めん。亜矢。」
 息も切れ切れに言う武史君の額の汗をハンカチで拭った。
「、間に合わないかと思った。」
「どうしたの、わたし、ずっとロビーにいたのに。」
「それはわかってたんだけど。」
 言葉を止めると、わたしの肩に手をかけて、身体を起こした。そして、細い目が見開かれると、真っ直ぐわたしを見つめて言った。
「時間、ある?」
 『今日は、家族でお祝いだから』。ロビーで言われた母の言葉を思い出した。
 でも、目の前でわたしを見下ろしている武史君の瞳が、わたしを強く引き止めている。
 お父さん、お母さん、ごめん。今は・・・。
「いいよ、武史君。」
「ありがとう、亜矢。そんなに遠くないから。」
 武史君の手が、わたしの手を握り締めると、出口とは反対の方へ歩き始める。
 夕刻を過ぎ、暗くなり始めた公園の遊歩道を進んで行く。
 こっちには、広い道路があるだけじゃ・・・。
 あまりの早足に、息が切れ始めていた。アンティーク調の公園灯に光が入り、広くなった遊歩道の両脇に並んだベンチを見た時、古い記憶が蘇った。
 白いユニフォーム姿と大きなバッグを背負った坊主頭の一団に混じって、この遊歩道を歩いたのは、あの時・・・。
 公園の案内板が示す、スポーツエリアの方へ武史君の足が向いた時、それは確信に変わった。
 そして、歩き続けたわたし達の目の前には、市営球場の鉄柵があった。
「こっちから入れるから。」
 一角に小さな扉があって、鉄柵の間から手を突っ込むと、簡単に錠が外れた。
「大丈夫なの?」
「うん。」
 うなずくと、球場の裏手へとどんどんわたしを引っ張って行く。
 夕闇が立ち込めた市営球場は、隣のグラウンドの照明で、淡く光って見えた。きれいに均されたフィールドに足を踏み入れると、盛り上がった中央の場所へ一直線に進む。
 黒々とした土に一本の白いプレート。その上に足を揃えて立つと、武史君はゆっくりとまわりを見回した。
「憶えてるよね。」
 わたしは頷いた。バックネット裏で両手を合わせて祈っていた、あの瞬間を忘れるわけがない。あの時、このマウンドから投げ下ろした武史君のストレートが、南中の県優勝を決めた最後の一球だった。
「俺って、馬鹿だからさ、思い込むと一つのことしかできない。2アウト2、3塁、一打逆転なのに、逃げるのが嫌だった。」
「でも、三振だった、でしょ。」
 武史君はうなずくと、わたしを見下ろして微笑んだ。
「あの時は、野球だけで目一杯、全然余分な事が考えられなかった。・・・亜矢は、ずっと俺みたいな奴のこと、好きでいてくれたんだよな。まるで気付かなっかったんだから、まったく大馬鹿だ。」
 ゆっくりと発される言葉の一つ一つで、心の奥が熱くなっていくのがわかった。
「でも、最後は見つけてくれたでしょ。わたしのこと。」
 目を球場全体にさまよわせた後、武史君は続けた。
「亜矢が俺を好きでいてくれる、それがわかった時、いろいろ考えたんだ。俺は亜矢の気持ちに適ってるのか、俺の気持ちはなんなんだろう、って。」
 もう一度肩に掛けられた手が、わたしの身体を引き寄せる。
「でももう、そんなことはどうでもいいんだ。今の気持ちは本当だ。それを大事にすればいい。」
「・・・そうだよ。」
「俺は直球勝負だから、どっかで踏み外すかもしれない。そしたら・・・」
「タイム!でしょ。絶対、マウンドに来るから。」
 武史君は大きく微笑んだ。そして、わたしは彼の首に手を回す。
「・・・キスして。」
 唇が軽く合わさっただけで、心と身体が全て満たされていく。
 その時、武史君の右手が、コートのポケットから何かを取り出すのがわかった。
「これ、開けてみて。」
 身体を離して、差し出されたブルーの小さな箱を開ける。
 嘘・・・。
 銀色のリングが淡く光っている。
「箱だけ立派で、安物なんだけど。今はこれが精一杯だから。」
 何て答えたらいいんだろう。言葉が出なかった。何の細工もない、銀色のリング。でも、こんなにかけがいのないプレゼントをもらったことがあるはずもない。
「・・・さっきも言ったけど、俺は今を信じていきたい。だからもし、俺の力が足りなくて、亜矢が行く道が他に見えたら、いつでも・・・」
 唇を手で塞いだ。そんなこと、絶対に、ない。武史君は、わたしがミットを構えていれば、いつも直球で返してくれる。そして、わたしには武史君しかいないんだから。
「・・・嵌めてくれる?」
 左手を差し出すと、武史君の目がわたしを見つめた。そして、薬指にゆっくりとリングが通されていく。
 わたしは、この瞬間を絶対に忘れない。そして、この気持ちも。
 どんなことがあっても、この人と一緒に歩いていくんだ。


 そして今も、あの時の気持ちは生き続けている。時が経ち、場所が離れても、変わることなくわたしの心の中に。

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