第8章 Separate Ways -Jan〜Mar-

 フランス革命…1689年?違う、それはイギリスの、清教徒、じゃない名誉革命。アンシャン・レジーム、テニスコートの誓い・・・ルイ16世、ロベスピエール、ダントン・・・。
 どうして思う通りにペンが動かない。
 そうだ、1789年。権利章典じゃない・・・。人権宣言。ラファイエット・・・独裁と粛清・・・ナポレオン。
 鉛筆の芯が折れた。
 消しゴム・・・ない。どうしてだ。
 現在完了形。過去完了形。経験。大過去。If+主語+had+過去分詞。
 英語は関係ない。今は・・・。
 残り時間は・・・。3分。
 答案用紙には何も書けていない。
 無理だ。
 無理だ!
 ・・・諦めるか!残り時間の中でできることがあるはずだ。
 少しでも埋めるんだ。
「・・・タケシクン。」
 誰だ?今、この答案を埋めなければ。
「武史君。」
 亜矢?でも、今試験会場には・・・。
 淡い光を反射するベージュ色の天井が見えた。
 そうだ・・・。
「大丈夫?変な夢でも見た?」
 もう、試験は終わったんだ。
 徐々に視野の中で形を取り始めた部屋の眺め。二つ離れて置かれたベッド。素っ気ないベッドライトに、小さな姿見とスツール。閉められたカーテンの隙間から見える夜のネオン。
 そして、Tシャツとトランクスだけで眠っていたベッドの脇には、立膝をして覗きこむ亜矢の姿。赤いチェックのパジャマの肩に、就寝前に梳かしていた豊かな髪が流れ落ちている。
 夢、か。
 まだ焦燥感が胸の内に残っていた。
「時間は?」
「5時ちょっと過ぎ。もう少し、寝る?」
 夕食が済んだ後、すぐに眠ってしまった事を思い出した。
「亜矢は、何時ごろ寝たの。」
「うーん、わたしも早かったよ。10時くらいかな。」
 そして、毛布の中に入ってきた手が、俺の腕に柔らかく重ねられた。
「・・・武史君が寝ちゃったから、つまんなかったし。」
 ベッドライトの淡い光の下で、少し口を尖らした表情が可愛い。
 次第にはっきりしてきた意識と共に、心がひどく軽くなっている事に気づいた。
 もう、何もしなくていいんだ。単語カードも、年表のメモも必要ない。そして、亜矢との約束。
 今日、どこを回ろうか、口を開きかけた時、亜矢の身体が毛布の中に滑り込んできた。俺の肩に頭を乗せると、腕を胸の上から首の辺りへ絡ませる。
「いいよね。・・・くっつきたかったんだ。」
 ミントの香りが、顎の下に置かれた髪の毛から立ち上ってくる。細い肩に手を回すと、もう一方の手で毛布を引き上げて二人の身体を覆った。
 しばらく言葉を紡ぐ必要が感じられず、ただ天井を見上げていた。
 こうして東京の空の下で、試験を終えて二人、身体を寄せ合っているのが不思議だった。
 年が明けてから一晩たりとも欠かすことなく、深夜まで続けられた受験勉強。1月の最終模試で思うような結果が出ず、自棄になりかけた時も、亜矢は何一つ否定することなく俺の繰り言を受け止めてくれた。
 亜矢がいなければ、きっと乗り越えられなかっただろう。
「あったかいなあ、武史君の身体。」
 亜矢はゆっくりと言うと、足を絡めた。
 ひんやりとしたつま先が俺のふくらはぎに当たった。
「うあ、冷めて。」
「でしょ。」
 そして、俺の太ももを両足ではさむようにして足先をぴったりとつけた。
「結構、冷え性なんだ。」
「結構、どころじゃないよ。夜寝る前はもっとひどいから。」
 少し小さな声になって言った。
「一緒に住んだら、いっつもあっためてくれる?」
「・・・住めたらね。」
「大丈夫。きっと受かってる。」
 少しの迷いもない調子だった。
「まったく、どっから来るんだろ。その自信は。俺は、正直やばいと思ってるよ。」
「大丈夫だって。ここ一番に強いの、わたしはよく知ってるから。」
「買い被ってるなあ。」
 窓の外が少し明るくなり始めていた。
 結果が不安なのは亜矢も同じはずだった。少しもそんな様子は見せないけれど。
 『亜矢こそ・・』、口を開きかけた時、絡めていた彼女の膝が身体の中心に当たった。
「あ。」
 小さな声の後で、クスッっと鼻で笑う。
「・・・朝の生理現象。」
「ホントに?」
 確かめられると、困ってしまう。そりゃ、亜矢が隣にいるんだから。それに、この前抱き合ったのは・・・。
「しようか。」
 低い声で囁かれると、それだけで反応を始めてしまう無粋者。
「だな。亜矢も、したかった・・」
 身体を起こしてキスで言葉を塞ぐと、すぐに唇を離した。細めた目が少し嗜めるような調子で光っていた。
「・・・言わないの。」
 デリカシーなかったよな、目だけで謝ると、今度は俺の方から唇を合わせた。髪の下の耳元に手を添えると、強く引き寄せる。少し口を開いたままじっと唇を合わせ続けると、閉じられたまぶたで長い睫毛が細かに震えているのが見えた。
 そして、侵入してきた滑らかな舌が、しずしずと口腔のあちこちに柔らかい刺激を与えてくる。  俺も、その舌を唇で吸い上げ、そして自分の舌を絡めて応じる。
 一瞬奪い合うような激しさで互いの唾液を交換し合ったと思うと、また舌先をつつき合うような柔らかい求め合いに戻る。
 キスだけで感じられる気さえした。どれくらい続いただろうか。俺は、亜矢がどれほどこの触れ合いを求めていたか身体で感じ取っていた。
 もう、一ヶ月も身体を合わせてないんだもんな。俺も、よく平気だったものだ。
 自慰行為でさえも、数えるほどしかしていなかったことを思い出す。
 亜矢は、どうだったんだろうか。
 唇を求め合いながら、いつかの会話を思い出してしまう。『ひとりHだけじゃ、さみしいんだもん。』
「・・・どうしたの?」
 うわの空になった俺に気付くと、唇を離して眉を寄せる。少し意地の悪い考えが浮かんで、どうしても口にしたくなってしまう。
「ほんとに、久しぶりだよな。」
「・・・うん。」
「大丈夫だった、亜矢は。やっぱ、一人でしちゃったりした?」
「もう。」
 唇を少し尖らすと、
「・・・ずっと待ってたよ。今日、一緒にいられるってわかってたから。でも、考えないようにしてた。取り敢えず試験が一番大事だから。」
「そうだな。でも、ほんとに?」
「女の子は男の人とは違うんだから。思い付かない時は全然平気だよ。」
 それでも、一瞬瞳を逸らして照れくさい笑みを口元に浮かべると、小さい声で言った。
「・・・ほんとは、2回くらいしちゃったけど。」
「ほら、やっぱり。」
「もう、なんでそんなこと聞くの。」
 少し怒りを含んだ口調になった亜矢の耳元に唇を寄せると、低い声で囁いた。
「・・・亜矢が自分でしてるところ、なんか見たくなった。」
「え?わたしが?」
「うん。」
 逸らしていた目を見開いて俺の方を見つめた。
「本気?」
「うん。」
「・・・ホントのホントに?」
「うん。」
 繰り返し聞かれると、半分からかうつもりが本当に見たい気持ちに塗り替えられていく。
 肘を突き顎を引いて視線を落としたまま、暫く黙り込んだ亜矢。
 ・・・やっぱり、調子に乗り過ぎたかな。
 そんなに強い気持ちじゃなかった。ただ、亜矢を少し困らせてみたかった。
「ごめん、やっぱ・・・」
「いいよ。特別サービスしちゃう。」
 少しトーンの高くなった声が、俺の言葉を遮った。
「ちょっと恥ずかしいけど・・・。」
 呟きながら仰向けになると、もう右手の指が顎の辺りから襟の付いたパジャマの胸元へと下り始めていた。枕の中に頭を埋めると、目が閉じられる。
 そして、ボタンが一つずつ外されていく。ふくよかな胸元を覆う白いブラジャーが見えた瞬間、身体の中心に衝撃が走った。
 ずっと目にしていなかったからだけでない、少し突き刺さるような快感。
 完全に胸元がはだけると、縁にレースの入ったカップの中に、亜矢の細い指が忍び込む。布越しに頂きを刺激する指の動きが見えると、俺も自然にトランクスの中の昂まりに指が伸びていた。
 視線を下げると、亜矢の手は既にパジャマのズポンを半分下げ気味にしながら内腿をゆっくりと撫ででいた。
「はぁ・・。見てる、武史君?」
「ああ。」
 ため息混じりに亜矢は言った。
「何か、うまくできないけど・・・。」
 言葉とは裏腹に、肩と足からパジャマは抜き取られていた。そして朝の淡い光の中に、豊かな白い稜線が浮かび上がっている。
 自然に身体を寄せて、頬の辺りに顔を寄せると、顔だけ横に向けた亜矢が唇を開く。軽くキスをすると、ブラジャーのホックがゆっくりと外され、張りのある乳房が視界に入った。
 人差し指と親指が、乳首の周りで円を描く。そして、時折、手の平で捏ねるように乳首に刺激を与えている。
 股間から動悸が聞こえてくる。
 迷うように足の付け根から内腿へと動き続けていたもう片方の手が、ショーツの中に入り込んでいく。
「やだ・・・。」
「濡れてる?」
 答える代わりに、小さなため息が漏れた。俺も堪え切れずに裸になると、亜矢の太腿に立ち上がった剛直を擦り付けるように身体を寄せた。唇が深く合わさり、舌が絡み合う。
 亜矢の手の動きが激しさを増していく。ショーツを抜き取った後、二の腕に俺の手を添えると、ゆっくりと手の先へと滑らせた。
 円を描くように草むらの下で動いている指先に指先が合わさると、少し開いた花弁が、既に潤っているのがわかった。
 主張を始めた花芯を嬲る細い指を手伝うように、根元を擦り上げた。
「ダメ・・・。」
 もう一方の手で俺の動きを押さえると、亜矢は目を開いた。
「そんなことしたら、感じちゃうから。」
 そして、身体を起こすと、屹立した剛直に手を添える。
「大きい。・・・ちょっとはタンノウできた?」
「・・うん。」
 本当は少し決まりが悪かった。やはり、自分で感じさせてあげたほうがいい。
「もうちょっと、セクシーにできたら良かったんだけど。武史君にだったらいつでも見せてあげるから、言ってね。」
 目の焦点が少しぼんやりした感じになって亜矢が言う。横臥していた俺を押すように仰向けにさせると、両手を添えて剛直を垂直に持ち上げた。
「久しぶりだぁ・・・。」
 はっきり言われると、少し気恥ずかしい。そして、舌先が張り詰めた先端にねっとりとした感触を伝える。裏の敏感な一帯を嬲ると、唇がゆっくりと幹の下へと下っていくのがわかった。
 久しぶりの感覚に、必死にこみ上げる快感を押さえた。気を抜けば、すぐにでも達してしまいそうだった。
 う・・。
 こそばゆいような感覚が足の間からこみ上げる。柔らかく袋の辺りに添えられた唇が、包み込むように精の源に刺激を与えてくる。そうされたまま、根元を押さえられてもう一方の手で先端を刺激されると、限界がすぐそばに迫っているのがわかった。
 このまま亜矢の口の中で達してしまいたい欲求を押し留めて、身体を次第に斜にする。そして、亜矢の腰に手をかけると、互いに愛し合える形になるように促した。
 少し躊躇する様子の足を、半ば強引に開いて頭を下に滑り込ませた。
 白い肌とはまったく色合いを変えた世界が目に飛び込んでくる。草むらの淡くなった際から、雫に光る細やかなパーツが重層しながら奥まっている。
 内側の小さな花弁に唇を這わせた。手を内腿に押し当てて開くようにすると、しっとりと濡れた襞を舌でなぞっていく。慣れ親しんだ甘い香りが鼻腔をつくと、入り口に唇を押し当てたまま、夢中で舌を動かした。
 動きに応えるように亜矢の腰が低く押し付けられてくる。その反応が嬉しかった。尖り出した先端を剥き出しにして、唇で小道を辿ると、優しく吸い上げた。
 もぞもぞと動く亜矢の腰を片手で押さえながら、ゆっくりと中指を濡れそぼった中心に沈めていく。熱い内壁が、襞を露わにしながら指を包み込んでくる感触。舌で真珠の周辺に円を描きながら、差し込んだ指で緊張した内側の側壁を押すようにする。
 亜矢の口からため息が漏れて、一瞬口から剛直がこぼれ出たが、すぐにねっとりとした感触が蘇ると、今まで以上に熱心な抽送が始まった。
 もう、耐え切れそうになかった。でも、柔らかいお尻の稜線にあてがった手に伝わる細かい震えが、亜矢もまた、頂点が近いことを告げていた。
 緩やかな臀部の傾斜をなぞるように愛撫を繰り返していた指を、少しだけ奥まった場所を通りすぎて前へと動かした。瞬間、咥えた唇が固く窄まる強い感触。
 やっぱり、ここも感じてる。
 本来なら、性感のためのものでないパーツ。秘めた場所で感じさせることが、ただの愛おしさと違う強い欲望を心の内に作り出していく。濡れた指を、少し力を入れて窄まった場所に押し付けると、指先が僅かにゴム状の締め付けの中に没入した。
 亜矢の頭の動きが更に激しさを増した。
 俺ももう、我慢できない。
 真珠をなぞる唇を強く押し当て、指を二つの締め付けが支配した瞬間、俺の剛直は暴発していた。
 身を震わせた瞬間、動きを止めて包み込んだまま受け止める亜矢の唇。喉の奥に、精が当たって流れ込んでいくのがわかる。
 全てを受け入れた亜矢が、唇を離して足元で力を失った時、何処かに行き場のない欲動が残った。
「テンション上がっちゃったね。もう少し、する?」
 うつぶせになった亜矢が、こちらを向かずに頭を左右に振った。何も言わずに太腿に頭を預けた彼女の耳元に手を添えて、小さな愛撫を繰り返した。
 もっと、自然に抱き合える時間が欲しい。
 そう思った。でも、これからは二人でいられる時間も増えるに違いない。
 気だるい感じに包まれながら、俺はぼんやりと考えていた。
 

 マンションのエレベーターに乗った時、腕時計の針は9時を少し回っていた。
 あの後キャンパスを少し見学して、新宿の繁華街と新都心を見て回ってから新幹線に乗った。気がつくと、二人でもたれ合いながら眠っていて、もう少しで乗り過ごすところだった。
 試験が終わってみると、亜矢と二人の小旅行だったようにも思った。正直、結果には到底自信が持てなかったけれど。キャンパスの並木道で亜矢が揺るぎ無い調子で断言したようには楽観できなかった。さすがにわずか数ヶ月の付け焼刃が通用するほど甘くはないと思う。
 ただ、そんな不安よりずっと、こうして亜矢と同じ道を歩めたことが満足だった。
 ボストンバックから取り出した鍵をドアの鍵穴に差し込む。
 すぐに、鍵が掛かっていない事に気付いた。
 ・・・おふくろが帰っているのか。
 開けたドアの向こうに続く廊下は薄暗く、人の気配はない。スニーカーを脱ぐと、下ろした足元が少し冷たく滑ったように感じた。奥の洗面所のドアから漏れる明かりで、床に何か液体のようなものが光っているのがわかった。
 点々と、俺の足元まで・・・。
 異様な予感に襲われて、壁のスイッチを入れる。照らし出された廊下には、赤黒く変色した…血。洗面所のドアから玄関へ、そして、リビングへ点々と散らばっていた。
 バッグを放り投げ、電気の付いた洗面所のドアを開ける。
 息を呑んだ。
 洗面台は、おびただしい量の血液で赤黒く染まっている。
 風呂場。トイレ。俺の部屋。リビング。寝室。ベランダ。
 誰もいない。
 いったい、何があった。
 うまく思考が組み立たない。とにかく、リビングにまで飛び散った血は、尋常でない何かがあったことを示している。
 血、テーブル?
 床に散った血を目で追うと、広告の裏紙に何かが殴り書きしてある。
『赤十字病院。』
 崩れて斜めになっているが、間違いなく母の字だ。
 赤十字病院、街中のか。電話帳…、いや、NTTの番号案内を。
 受話器を取ろうとしたその時、テーブルの上の電話が着信音を立てた。
「・・・はい。」
『森島さんのお宅ですか。』
 落ち着いた感じの女性の声が受話器から響いてくる。
「そうです。」
『赤十字病院ですが。森島紀代さんの息子さんですか。』
「はい。あの・・・」
『ああ、よかった。すぐにこちらに来られるかしら。』
「母ですか、この血は・・・、その、あの、大丈夫ですか?まさか・・・。」
『落ち着いて。お母さんはしっかりしてらっしゃいますよ。少し吐血がひどかったけれど。身内の方に連絡が取れないので困っていたの。こちらに来られます?」
「はい。」
 鉛のつまった胸の内が、少しだけ解けたように感じた。
『こちらの場所はわかるかしら。駅前の・・・』
「わかります。」
『そう、では、緊急外来から入って、内科病棟の方へ来て下さい。受付に話は通しておきますので。後、場所がわかれば、保険証も持ってきて貰えますか。』
「はい。」
 通話が切れると、俺は財布と保険証だけを持って夜の街へ飛び出した。バス停へ走り出した時、手の平にべったりと付いた血糊に気付いたが、どうにかする余裕もなかった。


 おふくろの顔をゆっくりと眺めたのはいつ以来だったろうか。
 化粧のとれた細い顔は、ひどく青白かった。白い枕に頭を埋めて、弱い光を帯びた目で俺の方を見やった。
「ごめんね、タケちゃん。調子が悪いとは思ってたんだけど・・・。」
「いいよ、おふくろ。しょうがないさ。もともと飲める方じゃないんだから。」
 天井を見上げた表情はまだ虚ろだった。それ以上会話は続けられそうにもなく、俺はパイプ椅子から腰を上げると、病室から出た。
 夜の病院の廊下は透き通るような静けさが支配していた。ゆっくりと歩いても、スリッパがリノリウムの床との間に乾いた音を響かせる。俺は病棟の端に設えられた休憩所の長椅子に腰掛けると、カップのコーヒーに口をつけた。
 慌しかった今日一日のことを思い返していた。
 本当なら、今日は受験の報告で学校に行くはずになっていた。そしてそこで、亜矢と落ち合う予定だった。
『わたし、病院にいった方がいい?』
 亜矢に側にいて欲しいと思った。でも、今はまだ、気持ちの整理がつかない。
 昼過ぎに診察室でレントゲン写真を示されながら受けた説明を、ぼんやりと思い出す。
『かなり重度の胃潰瘍だね。3分の2位は切除の必要があると思う。』
 まだ30代半ばくらいに見える若いドクターは、感情の動きの見えない吊り上った目で、淡々と告げた。
『それより問題は、こっちの肝臓の数字の方だね。・・・正直、肝硬変一歩手前と言ったところだから。手術も急がないといけないけれど、術後はよほどしっかりと静養してもらわないといけない。』
 おやじには連絡がとれなかった。そして、おふくろの親戚は、また従兄弟にあたる人が沖縄に住んでいるくらいで、連絡を取るべき人すらいなかった。
 ため息が自然に漏れた。
 眠っていないせいか、頭の奥に靄がかかっているような気がする。
 おふくろを、このまま置いていくわけにはいかないだろう。医者の言う通り、この後飲み屋勤めをすることは自殺行為だ。看護婦さんの話では、胃を切除すれば、長い食事制限が必要になると言う。
 そんな長い時間、病院で面倒を見てもらう余裕がないことはよくわかっていた。
 昨日の昼、亜矢とキャンパスを歩いていた時とはなんという落差だろう。
 悔しさや怒りは湧いてこなかった。ただ、砂糖の入っていないコーヒーが舌の奥に苦味を残す。その感覚ばかりが後を引いたまま、俺はぼんやりと夜の病院の窓辺から、暗い眼下を見下ろしていた。

扉ページに戻る  亜矢サイトへ 前章へ 次章へ